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旅宿問答・藩翰譜、成田氏家伝発祥の秘密Ⅱ

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。明日から10月だと言うのに、一向に涼しくなりませんね。異常気象は、このままずっと続くようです。

そうなると、冬は無くなるのでしょうかね? 秋の次は春か?

 

 さて、前回、前々回と、成田氏の家伝の発祥について、室町後期に作られたもので

あろう、とする自説について述べさせて頂きました。しかしこれが本当だとしたら、

旅宿問答も藩翰譜も成田氏系図も、全て信用出来ない代物になってしまいますよね?

トンデモ本?、として断罪しますかね? 実際これらの書物は現在でも、そのような

位置に置かれているようにも見えますが。でも果たしてそれで良いのでしょうかね?

 今まで何度も申し上げましたが、家伝とは、史実の言い伝え、ではないのです。

仮冒や虚飾が当然含まれているのです。伝える目的が、先祖の顕彰であるからです。

ですから、史実と違うから間違いだ!とか言って、憤る方が間違っているのですよ。

その時点で判断停止に陥ってしまいますからね。Wikipediaなどは、その傾向が強いですね。

藩翰譜について、「 短期間で完成させたので間違いが多い?」のではないのですよ。

そうではなく、家伝をそのまま記述したので、事実誤認が多いだけのことなのです。

間違いを書くな!という教条主張は、家伝の記述には、まったく当てはまりませんよ。

家伝は家伝として、嘘は嘘として、その家における、その当時の歴史の一部なのですから、

記述そのものとして観察するべきなのです。もちろん指摘はさせて頂きますけれどね。

 

 でも成田氏の家伝については、江戸期まで代々、良く継承されて来ているように思えますよね。

何故なら、成田氏の始祖伝説では、成田氏系図も旅宿問答も藩翰譜も、著者は違えど、何とほぼ

同じ伝承内容でしたからね。それだけ良く伝えられているのです。(※微妙な点は異なるが、)

ですから信者も当然増える訳です。信者と言っても、伝説を全て真実(史実)だとして信じている

訳ではありませんよ。そうではなく、代々のご先祖様が、そのように伝えて来ているので、皆一応

納得して、伝承して行こうという気持ちなのです。つまり、真実かどうかは、実はどうでも良くて、

伝承を続けることが大切である、という考え方なんです。多分、村のお祭りの継承などと似ています。

ところがこのこと、史実至上主義の方々には、理解出来ないのですね。そこで、史実と異なる妄言だ

として攻撃するのですね。するとそこで議論や探求が終了してしまいます。そしてその後は、伝説を

虚偽として、無視するようになるのです。無視するだけならまだ良いのですが、伝説についての新しい

研究などが出て来ても、伝説そのものが虚偽だから?と言う理由で、引用することさえ否定してしまう

のですね。成田氏系図などの引用で、顕著に見られます。しかしこれって、学問的態度じゃありませんよ。

彼らが拠り所としている史実?だって、実は時代と共に、ころころ変化しているのですけどねえ、、、

私は、史実とは、現状多数決なのだろうと思っていますがね。ですから、成田氏伝説は虚偽だ!と攻撃

されると、その子孫達(多くの熊谷・行田市民)は、一致団結して反論・反撃する訳なのですよ。

それほど、成田氏の始祖伝説は、良く出来ているのですよ。良く出来ているから、廃れずに、代々伝承

されているのです。(村祭りや家の年中行事を行うように、です。) 実は、理屈じゃあないのですよ。

 

 で、皆が納得する理由とは、皆が良く知る古い物語から、この始祖伝説が作られているからなのです。

保元物語の登場人物を流用することによって、ものの見事に成田四家始祖伝説を作り上げたのでした。

熊谷市・行田市近郊に在住する人々であれば、保元物語を知っていて、成田四家伝説を聞けば、誰もが

納得する訳なのです。源義朝に従う武蔵武士として、成田太郎も別府次郎も、奈良三郎も玉井四郎も、

端役とは言え、全員登場しているんですからね。郷土の誇りとして、信じない方がおかしいのです。

でもどうして、成田四兄弟伝説が、これ程うまく行ったのでしょうかね?その理由は、この保元物語が、

当時の日本国民の多くが良く知る、物語だったからなんです。現代人なら、保元物語なんて、現在では

ほぼ誰も知らない物語なんですけどねえ、当時の状況と、いったい何が違うのでしょうかね?

それは当時(鎌倉・室町期)の人々の、情報伝達の仕組みの違いにより、広く普及したからなのです。

現在とは異なる、情報伝達の仕組みとは??(次回へ)