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新井白石の藩翰譜で、成田氏の発祥を読むⅣ。

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。

9月も中旬だと言うのに、一向に涼しくなりません。秋はなくなり、いきなり冬が

やって来るのでしょうか。砂漠地帯のリビアでは、豪雨と洪水により1万人もの

犠牲が出ています。晴れても被害、雨でも被害と言う、極端な世界が普通になった

ようです。人類生存のためには、気象自体を制御しなければならないようですね。

 

 さて今回からは、「藩翰譜で成田氏の発祥を読む」全体のまとめです。これまで

藩翰譜と旅宿問答を読んで来て、成田氏の始祖伝説をどのように考えるのか?、

私の私見を述べさせて頂きます。どうしてなのか?と申しますと、成田氏の発祥に

ついての記述が、この写真のページだけで終わりだからなんです。前回より以降の

本文の内容は、いきなり成田氏が幡羅郡から埼玉郡の忍(現行田市)に移住して

以降(室町後期)の家伝の記述になっているのです。つまり平安末期から始まった

にも拘わらず、鎌倉・南北朝期の記述が、成田氏家伝から、すっぽりと抜け落ちて

いるのです。何故なのでしょうかね? ここは少し過激な推論を展開させて頂くつもりです。

 

 で、抜け落ちている理由について私は、成田氏が、室町後期から戦国期に現れた、成り上がり

の大名であったからだろう、と考えています。良く判りませんかね?つまり、成田氏の子孫達は、

忍に移る以前の先祖については、何も知らないのですよ。先祖に関心が無かった、とも言えます。

何故なら元々、家伝など必要のない身分だったからなんです。更に成田などという地名や氏族名は、

全国いたるところに存在している名前だからです。(更に、明らかに農民出自の氏姓ですよね。)

それゆえ大名になってから後に、大昔からの有力氏族であったとの伝説が、必要になったのだろうと

考える訳なのです。豊臣秀吉と同じですよ。大名になったから、領国支配のための成田氏の家伝が、

必要になったのです。ではこれらの始祖伝説が、いつ頃作られたのか?、と考えてみますと、私は、

成田顕泰・親泰・長奏の頃(1500年代)あたりだろうと思っています。関東管領上杉氏の家臣大名

として、勢力拡大の時期だったからです。この頃忍城が築城され、菩提寺である龍淵寺も建立(再興?)

されていますよね。成田氏は、この頃にようやく、大名になったのです。家伝は、領国支配の道具です。

領主成田氏が、どこの馬の骨か判らぬ、では困るのでした。早急に家伝を整える必要が生まれた訳です。

そして最初に作られた伝説は、忍に移る前の、成田氏の御祖、成田五郎家時の伝説だったのではないか、

と思われます。成田顕泰・親泰・長秦らに一番近い先祖として、熊谷市上之を父祖の地として、無名時代の

御祖を祀った訳です。(忍の地領有以前の、成田氏の素性を、世間に明らかにした訳ですね。)またこの

時、成田家の始祖としての成田助隆伝説も作られます。(八幡太郎義家の叔父?、成田下馬の伝説等々、)

しかし上之は、後から定めた父祖の地なので、残念ながら平安末期の遺物等は、何も残っていないのですわ。

それで確か成田長奏には、上杉謙信の関東管領就任式に際し、下馬しなかった、というエピソードが物語りの

中で伝えられていますが、これも成田助隆伝説の誕生の中で、関連させているのかも知れないと思っています。

藤原氏始祖伝説が追加されたのは、更にその後のことです。(だから藤原氏であれば、誰でも良いのですよ。)

つまり最初に成田氏家伝があったのではなく、良く知られた物語に合わせて、家伝の伝説の方が作られたのです。

最も成功した、成田四家の誕生伝説は、保元物語の登場人物から作られたのでしょう。たまたま登場人物が、

成田太郎、別府次郎、奈良三郎、玉井四郎であったので、成田四兄弟になったのでしょうね。実際には、他にも

箱田次郎とか川上三郎などの名前も登場しているんですけどね。(これ全部、熊谷市内近隣の村々の地名・氏族名

であるところがミソです。)箱田氏を含めて五兄弟にしなかったのは、理由があります。何故なら箱田氏は、近隣

熊谷市内の氏族の中で、成田氏などより遥かに歴史の古い氏族だったからです。箱田氏を兄弟に入れてしまうと、

虚構の素性がばれてしまうからなんですね。そしてこの、近隣四兄弟伝説の確立によって、成田氏による領国支配の

正当性も、同時に確立することが出来たのでした。成田四兄弟伝説が成功したので、領国支配も正当化出来たのです。

では、成田四家など無かったのか?、と申しますと、それも違いまして、元々、成田氏、別府氏、奈良氏、玉井氏は、

武蔵武士団氏族として存在していたのです。実在していたからこそ、保元物語や吾妻鏡にも登場している訳です。

つまり後代の成田氏は、平安末期に活躍していた実在の近隣四氏族を、後代の自分達の家系に取り込むことによって、

過去を作り上げたのでした。しかし、平安末期の成田氏と後代の成田氏は、まったく別系統であるのかも知れません。

ところがです、保元物語の次の、平治物語、平家物語、太平記では、成田氏の名前が、ほとんど登場していないのです。

(別府氏は出て来ますけどね。)ですから成田氏の家伝伝承には、以降の物語を取り込むことが出来なかったのですよ。

と言う訳で、成田氏の家伝には、鎌倉期・南北朝期が、すっぽりと抜け落ちている訳なのです。 これが私の見解です。

おかしいですかね? 少なくとも成田氏の子孫の方々や、熊谷市の江南文化財センターあたりからは、お叱りを受ける

内容だろうと思います。また、まあこのように考えたとしても、新しい疑問は、次々と湧いてくるだろうと思いますが。

次回からは、これらの疑問について、解明を進めてみたいと思います。(次回へ)