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旅宿問答で、別府氏発祥の地?別府村を読むⅨ。

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。台風が過ぎ去り、お盆が終わっても、暑さは続いていますね。

8月一杯は、この猛暑が続くのでしょうか? 人類の生存が脅かされそうな気候変動ですね。

 

 さて「旅宿問答で別府村を読む」も、別府村や別府氏、奈良氏、などの記述が無くなって来たので、今回が最後になります。

左写真の右ページ2行目までが前回でした。「古別府」と呼ぶ理由についての解釈でした。作者は、西別府家の文書に、古別府

と書いてあるのは、成田助隆以前も別府と呼んでいる者がいたので、古の字を置いたのだろう、と言っていましたねえ。もしか

すると、作者は、別府の地名よりも、別府の氏族名の方が古いと、思っていたのかも知れません。主君の別府氏が領有したから、

別府の地になったのだ、という考え方でしょうかね? でもこの考えは間違いですよ。土地の名前の方が古いのです。

 

 続いて本文は、「(西別府の)九体丈六(九品仏)は、仏か菩薩か?」という、どうでも良いお話しに展開して行きますが、

この部分は省略させて頂きます。そして左写真の左ページ4行目、「問うて曰く、玉井殿と申すは、権現か?明神か?、答えて

曰く、大明神にて御座候。」まあこれも、どうでも良い内容なのですが、玉井殿(玉井氏?)とありますので、一応取り上げます。

まず、何を問うているのか?と言うと、「玉井殿」という祭神についてですね。前々回に、別府村の総鎮守は、井殿と呼ばれる

湯殿神社であると言っています。新編武蔵風土記稿の西別府村の項では、湯殿山権現社でしたね。つまり、湯殿山神社の祭神に

ついてであれば、井殿と書くハズなのです。ところが敢えて、「玉井殿」と書いています。思い出されるのは、別府村のお隣り、

玉井村の玉井神社ですね。玉井神社も、井殿とか玉井殿と呼ばれていました。とすると、本文の玉井殿とは、玉井神社のことか?

と思いますよね? で、返答を見てみると、「大明神にて御座候。」な訳です。そこで再び、新編武蔵風土記稿の玉井村の項を

振り返ってみます。すると、玉井明神社:昔は、井殿明神と呼ばれていた、とあるではありませんか。明神であると言うことで、

「玉井殿」とは、玉井村の玉井神社のことであると判明したのでした。もし別府村の井殿であれば、明神ではなく、権現だと言う

ハズですからね。新編武蔵風土記稿では、井殿=湯殿山権現社だからです。

しかしもし、玉井殿が「大権現に御座候」であったなら、私は驚愕していたかも知れません。新編武蔵風土記稿で、祭神詳ならず、

とされていた玉井神社の祭神が、玉井四郎助実である可能性が出て来るからです。だって権現様は、現人神ですからね。徳川家康は、

東照宮の東照大権現な訳です。これと同様に、玉井四郎助実は、玉井神社の大権現だったと、考えることが出来るのですよ。まあ、

単なる夢想話しですがね。神様になったのなら、初代玉井四郎助実よりは、後に、後白河法皇に丹波国での乱暴狼藉を咎められて、

源頼朝を激怒させたと伝えられる(吾妻鏡より)、玉井四郎助重の方が、むしろふさわしいかも知れませんがね。

でも旅宿問答、今までずっと別府村関連の話題だったのに、突然の玉井村ですわね。遂に別府村の話題は、途切れたようです。

 

 そして本文は、ぽんと飛んで、旅宿問答の最終ページ(右写真左ページ)です。文章は、仏教説話みたいなお話しが最後ですね。

そして「永正四丁卯十二月八日覚重問佳童語ノ名曰旅宿問答」で終わっていますね。この記述から、旅宿問答は、1507年の成立で

あろうと言われています。まあ永正四丁卯は、1507年以外にはあり得ないようなので、1507年自体は、その通りなのでしょう。

ただ問題は、この書物が書かれたのが、本当に1500年代(室町後期)なのか?、と言う点なのです。正直、良く判りません。

永正四丁卯(1507年)と書いてありながら、何故良く判らない、と言うのかと申しますと、幕府の公式地誌である新編武蔵風土記稿

の東西別府村や上之村の記述の中に、成田氏系図は、引用として何度も登場しているのに、旅宿問答は一度も登場していないから、

なんです。本当に永正四年の作であれば、風土記稿でも取り上げてしかるべきだと思うからです。またこの旅宿問答、史料としては

あまり信用されていないらしい?、とは言えるようですね。ですから、他史料にも、あまり引用はされていないようなのです。

しかし、成田四家や奈良氏を調べる我々にとっては、非常に興味深い内容だと思われます。つまり、仮に江戸期の作だったとしても、

得るものは多いと思われるのです。全否定すべきではないのですよ。成田氏系図に影響を受けて、書かれたとしても、それはそれで、

意義のある史料なのです。成田氏系図は、尾張藩士、成田成任によって書かれたとされていますが、その成田氏系図に影響を受けた

とすれば、旅宿問答は、西別府村出身者が、成田氏系図を補強・訂正するために書いたのかも?と、考えることも出来るからです。

なので、当時の地元別府村の、成田氏系図に対する意識を探ることが出来るのではないかと、思われるのです。成田氏系図の作者が、

成田氏の末裔であるならば、旅宿問答の作者は、多分、別府氏の末裔なのですよ。立場が異なれば、その主張も微妙に異なる訳です。

どちらが正しいとか、間違っている、ではないのですよ。当時はそのように考えられていたらしい、で良いのです。

成田氏系図でも旅宿問答でも、奈良氏や別府氏、玉井氏らの成田四家の成立過程については、ほぼ同じ記述内容でした。ですから、

成田氏系図は、旅宿問答を参考にしたのだとか、逆に旅宿問答が成田氏系図を参考にしたのだ、という議論が生まれる訳なんですが、

私にはむしろ、当時の成田四家の村々には、このような四家の成立伝承が、広く伝わっていたのかも知れない、とも考えられるのです。

つまり、熊谷市地方の民間伝承ですよね。我々は、成田氏系図や旅宿問答を読むことによって、失われた民間伝承を、掘り起こして

いるのかも知れないのです。もし、成田氏系図や旅宿問答以外に、四家の発祥伝承を伝える史料・文献等が存在すれば、この物語は、

失われた民間伝承である可能性が、高まるのかも知れません。(この項了)