いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。今もなお、暑い毎日が続いておりますが、ここ数日は、1度ぐらい
づつですが、猛暑日が無くなり、最高気温が少し下がって来ているような気がします。が、まあ暑いのは同じなんですがね。
さて、旅宿問答で別府村・別府氏を読む、の4回目です。前回は、主人公による神社や九体丈六(九品仏堂)、先祖代々の墓など
での、西別府の自慢話しの途中で終わっておりました。今回は、その続き(左写真の左頁4行目)からです。
「肝心なことは、父祖である(成田)助隆の、東西(別府村?)の至四傍示(しじほうじ)書で、(別府次郎)行隆が譲り受ける
という譲り状も、西別府にあります。現在では西別府には、北・南・西と、三人の庶子が居りますが、東(別府氏)も、そのことを
認めております。」だそうです。すごいですねえ、成田氏の祖である成田助隆が、別府氏初代になる別府次郎行隆へ領地を譲り渡す、
という譲り状が、西別府にはあるそうですね。ホントですかね? 以前の九品仏堂の大黒様の巻物みたいなもの(伝説)ですかね?
この辺りは、どうも胡散臭い話しに聞こえてしまいます。だって、現在にまで残る史料は、全く残っていませんからねえ。旅宿問答
が書かれたとされる、1500年代までは、残っていたと、言いたいのですかね?(その後、別府氏は途絶えていますからねえ、、)
また後半で、今では東西別府氏だけではなく、西別府には、北別府氏や南別府氏の庶子(分家)も存在しているそうです。これも
新情報ですわね。そして東別府氏は、これを是として認めているということは、家同士の争いは存在しない、ということですかね?
しかしこの旅宿問答が本当に永正4年(1507年)頃の成立だとしたら、この内容は、どう見ても成田氏系図の原本?じゃあない
ですかねえ? 成田長任は、旅宿問答を読んで、成田氏系図を書いたのかな? でも逆に、江戸期の作だとしたら、別府氏はとうに
滅亡していますから、譲り状があった等何でも、好きなように書ける訳です。とすると、成田氏系図の内容を補強・訂正するために、
西別府村の出身者の誰かが、この旅宿問答を書いたのかも?、とも言えるかも知れません。難しいですねえ。
ただ、別府村は別府氏(成田氏?)が宣言した私領ですから、荘園ではないので、至四傍示書なんて、必要ないハズなのですよ。
でも、前々回の文書では、四家の出自は、それぞれ別々で、位の上下はないとも言っていましたけどねえ? それが今回は、成田氏
系図の内容を、追認する形になっている訳です。しかも、成田助隆から別府次郎行隆への、別府領の譲り状も存在する、などと言って
いますねえ。もちろん現在は、譲り状などは現存していないのですがねえ、、また、東西の至四傍示書なんて、成田助隆と別府行隆を
混同しているような記述もありで、この辺りは、かなり怪しい感じがしますね。 旅宿問答と成田氏系図、果たしてどちらが影響を
受けているのでしょうかねえ? もしかすると、むしろ旅宿問答の方、だったりして、、?
で、本文はまだ続きます。曰く、「亭(主)問う、いずれの頃より東西に分かれたのですか? 答えて(初代別府)行隆の子に、
左衛門督行助、治部少輔義行という両名がおりました。義行は東を、行助は(西の)、跡を継ぎました。播州一の谷(兵庫県神戸市
一の谷の合戦)などへは、代官となって、東小太郎(別府小太郎清重か?)が立ったそうです。その時東小太郎は、西国より手紙を
書いているそうで、現在までの主人の別府家の文書(西別府?)に、(⇒以降右写真右ページへ)保管されているそうです。」
だそうです。東小太郎とは、どう考えても、平家物語に登場している、別府小太郎清重のことでしょうね。一の谷の合戦において、
源義経に、攻略策を進言する若武者として登場していますからね。別府村出身者にとっては、まさしく村一番のヒーローであり、
誰もが知る有名人な訳です。その別府清重の手紙が西別府家に保管されているとなれば、大変なことですよ。だって、別府清重は、
東別府の香林寺を開基したと伝えられる人物だからです。普通は香林寺に保管されていそうな文書ですがねえ?この記述も、先ほど
の、別府行隆への領地譲り状?と、同じようなものですかね? 何とも怪しさが、どんどん増して来ますが、、。
更に続けて、「(この地を)古別府と書いているのは、(成田)助隆の領有以前より(この地を)別府と言う人がいるので、古の
字を付けているのだろう。」なのだそうです。
またまた、多くの疑問が湧いて来ます。まずは東西別府に分かれた時期・経緯ですね。成田氏系図と同様に、初代別府行隆の子
の代に、東西に分かれたと言っております。ただ東別府氏の方は、能行ではなく、義行になっていますけどね。(西は行助で同じ?)
更には、この説を補強するために?、平家物語に登場する、別府小太郎清重を想起させるように、東小太郎が一の谷に派遣されたと
書き、東小太郎が西国から西別府氏へ、手紙を書いていると記しています。この辺り、私には怪しい匂いがぷんぷんしております。
多くの読者が知っていそうな情報(平家物語の別府小太郎清重)に、新情報(手紙)を加えて、信ぴょう性を高めるやり方ですわね。
更に、成田氏系図と、完全に一致させない点がミソですね。些末な点を微妙に変えて、逆に信ぴょう性を高めるテクニックです。
東別府氏の跡継ぎの名前を変えている点が良い例です。次に、古別府「(成田)助隆の前から、この地を別府と言う人がいるので、」
と書いています。この作者は、成田助隆・別府行隆の時に、この地が別府の地名になったのだ、と考えているようです。ですから
助隆・行隆以前と以降で、地名を古別府と別府に分けている訳です。しかしこの考え方は、間違っていると思われます。助隆・行隆
父子が、この地を別府と名付けた訳ではないのです。平安末期の東国武士団の成立は、この土地は、自分たちの土地であると、宣言
するために、その土地の名前を姓として名乗ったことに始まっています。つまり、別府氏を名乗った時点で、別府の地名は、既に
存在していた訳なのです。旅宿問答の作者は、どうもこの点を誤解しているように見えるのです。つまり、古別府などと書く理由は
存在しないのです。別府の地は、大昔からずっと、別府のままなのですよ。ですからこの点も、怪しい点なのです。
さて、右写真本文に戻りましょうか。でも本文の方は、「亭主問う、(九品仏堂の)九体丈六(九品仏)とは、仏か?菩薩か?」
などと、話しは飛び、どうでもいいような話題になっています。この辺りは、現代語訳しても、意味は無いかも知れませんね。
と言う訳で、これ以降に、何か興味深い記述は、あるのでしょうか?(次回へ)



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