· 

旅宿問答で、別府氏発祥の地?別府村を読むⅦ。

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。 7月から延々と続く酷暑ですが、収まる気配は全然ありませんね。

電気代高騰の折り、毎日のクーラー代は、一体いくらになるのでしょうかねえ?、、 恐ろしい限りです。

 

 続群書類従に収められている「旅宿問答」(国立公文書館蔵)の中に、別府村や別府氏、奈良氏の痕跡を見つけている3回目です。

成田氏系図と同じ内容もありますが、異なる内容もあるようです。しかし別府氏だけでなく玉井氏や奈良氏も、この地(熊谷市周辺)

で、活躍していたらしいことは、本文記述からも明らかなようですね。まずは、先入観を排して、読み進めてみたいと思います。

 

 さて本文は、前回の途中、左写真右ページの5行目からです。「さて、別府氏には東西の名字があります。亭主問うて曰く、東西の

どちらが惣領本家なのですか? 答えて曰く、詳しくは存じません。なにせ(この地の)殿様ですからねえ。ただ、西別府家は代々、

左衛門を名乗っています。それで、代々の先祖の墓が並んで建っていますが、どの墓にも、甲斐権守左金吾(左衛門の守の唐名)と

彫ってあります。誠にすぐれた才覚です。また、上卿四条の中納言蔵人頭左大弁である藤原仲房の御名所にて、文和二年(1353年)

4月9日の日付で、靫負(ゆげい)尉の宣旨を、お受けに成られています。靫負尉と申すのは、(西別府)左衛門尉が、靫負の役人に

なられたので、そのように言ったのでしょうね。」とのことです。要は、彦右衛(大夫)の、西別府の殿様自慢ですね。この文では、

西別府氏についての具体的内容が語られていますので、細かく見てみましょう。

まず、旅宿問答が書かれた時代には既に、東別府氏と西別府氏、両家が並存していたらしいことが判ります。ただこのことで、やはり

鎌倉期から別府村は東西に分かれていたのだ、と即断するのは禁物だと思うのです。私は一つの別府村の中に、東西の別府家が並存

していたと考えることも出来る、と思っています。東西が別々の村だったとしたら、どちらが惣領本家なのか?、という疑問も、

意味をなさないと考えるからです。ひとつの村だったからこそ、このような質問が出されたのでしょう。で、その答えが、詳しくは

存じません、両家ともウチのお殿様ですから、となりました。うまく答えていますね。私は時代によって、西が優位だったり、東が

優位になったりしたのではないか?、と思っています。多分、南北朝期には西別府家が優位で、戦国期は東別府家が優位だったよう

には見えますがね。(後の文章では、北別府家とか南別府家も、あるような話しも出て来ますが、、。)

 更には、彦右衛大夫の西別府家自慢が始まります。まず、西別府家当主が、代々左衛門を名乗っている、というのは新証言ですね? これを明らかにするために、代々の墓石の銘文の説明になります。どの墓石にも、甲斐権守左金吾=甲斐権守左衛門守という銘文が

彫ってある、と言っています。ほう、これは現在の墓石碑文でも確認が出来るかも知れませんね。では確認してみましょう。

 以前の新編武蔵風土記稿の西別府村、別府頼重墓の記述を見てみましょう。別府頼重墓:「碑面上に梵字、その下に文和三年甲午

(1354年)五月十一日逝孝子敬記、その左右に、甲斐守藤原頼重世寿四十一歳法号常賛矣、と彫れり。」だそうです。

更に、現在の別府頼重墓の板碑写真をよく見ても、碑文内容は同様でした。つまり、甲斐守とは彫ってあるが、左金吾=左衛門守とは

彫っていないのですよ。別府頼重墓は、代々の墓の中で一番大きな墓ですから、普通ならこの銘文を間違えるハズはない、と思われる

のですがねえ。旅宿問答、やはり少し怪しい記述である訳です。比較的良く知られている事象の中に、検証不能の事柄も、散りばめ

られているからです。ですから続いて、文和二年(1353年)に、靫負尉の宣旨を受けた、との話しが出て来ますが、年代的にこの

人物は、文和三年に死去している、別府頼重以外に考えられない訳で、南北朝期でもあり、何となくありそうな話しであるがゆえに、

むしろ逆に、怪しく感じられてしまうのです。史料が存在しないので、検証も出来ませんからねえ。 

 京や西国では、ちょうど足利幕府内の内紛・大争乱である「観応の擾乱」が収まりつつある時代ですかね。そして関東の方では、

初代関東管領になった、上杉憲顕あたりの時代です。この頃から既に、武蔵の国人衆である別府氏は、果たして山内上杉氏の家臣

だったのでしょうかね?(※旅宿問答成立時とされる1500年代頃は、上杉氏が主人だと言っていますけどね。)

 

 で続いて、西別府家に続き、西別府の自慢も始まります。曰く、「また、村の総鎮守である伊殿も、西別府に建立されていますし、

(淡海公が建立したと伝わる)九品仏堂や、代々先祖の菩提所も、西に建っております。」だそうです。つまりこの村は、西別府村

ではなく、別府村だと思われます。だから、村の総鎮守神社は、西別府側にあると、自慢している訳です。ちなみに伊殿とは、新編

武蔵風土記稿の西別府村の項によれば、湯殿山権現社(湯殿山神社)のことですね。修験道の神社です。現在でも、西別府湯殿神社

として、残っています。この神社の歴史は古く、何と古墳時代から祭祀が行われていたようです。何故、湯殿神社なのに「井殿」と

呼んでいるのか?、については、この村の水源(御手洗)がこの地にあり、稲作のための水神祭祀が行われていたので、井殿と呼ばれ

ていたそうです(埼玉の神社より)。そう言えば、玉井村の玉井神社も、井殿(井戸)でしたね。と言う訳で、村の総鎮守は、榛名

神社や東別府神社(春日社)などではないよ、ということなのですね。更には、(別府家)先祖代々の墓所も安楽寺(九品仏堂)の方だ、と言っております。東別府の香林寺ではないよと、言っている訳です。しかし香林寺は、平家物語に登場する、別府小太郎清重が、

父である別府義重の供養のために建立した寺だと、伝えられていますよね? とすれば、別府義重・清重父子は、別府氏の嫡流では

なかったのでしょうかね? 庶流だから安楽寺(九品仏堂)には入れず、別府小太郎清重は、香林寺を建立したのかなあ?、、

しかし、九品仏堂の方は古いけれど、別当安楽寺の方は、開山者が死去したのは、文和二年(1353年)だそうですよね。(新編武蔵

風土記稿より)とすると、安楽寺の開山も、1300年代になりますので、別府頼重以前の鎌倉期別府氏代々の先祖の墓は、安楽寺には

無いんじゃないかな?と、思ってしまいますけどねえ、、。また以前の他村の寺院のように、寺の宗派が変わって、安楽寺になった

のかなあ?、、、やはり色々と良く判りません。 本文はまだまだ先、西別府自慢は続きますが、続きは次回へ。