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フル稼働しているので、もしクーラーが壊れたらどうしよう!と、気が気ではありません。
さて今回も、別府村・別府氏関連で、新編武蔵風土記稿から離れ、旅宿問答(国立公文書館蔵)の第2回目です。またどうして
このブログで、旅宿問答を取り上げるのか?、と申しますと、この古い史料で、名も無い武蔵国の別府村、別府氏、更には玉井氏、
奈良氏までもが、何度も登場しているからなんです。非常に稀有な史料である訳です。今回は旅宿問答の中で、別府氏や玉井氏、
奈良氏、成田氏などが登場しているページだけを抜き出して提示させて頂いております。但しこの文書、前回も申し上げた通り、
かなり怪しい史料ではある訳なんですね。その意味で、この旅宿問答の中で、単に成田四家が登場した!、奈良氏の名も出た!と、
単に喜ぶだけではなく、この文書を懐疑的に読み進めて行くことが重要だろう、と思われるのです。
で、写真は左から、前回最後のページからの続きです。確か、別府氏、玉井氏、奈良氏、成田氏らは皆、藤原氏北家の出自である、
という記述内容でしたね。で今回のページの最初(左写真右頁の3行目)は、藤原氏の流派の説明に続き、「問うて曰く、別府氏や
玉井殿など四家の方々は、武蔵国の人と聞いておりますが、武蔵七党の出自なのですか? 答えて曰く、それぞれ別々です。位の
上下はありません。何せ大昔より、公方(将軍)様には、武蔵七党の者ども、四家の方々ともに召し抱えていましたからね。この
ことは、鎌倉公方足利持氏公の代(1409年~1439年)に、殿中で日記を書く役人だった法界坊という人が自分で言ったことです。」
だそうです。これも興味深い記述ですね。成田氏系図では、成田四家が、成田氏を本家とする同じ一族である、としているのに対し、
それぞれ別の出自だ、と言っている訳ですからね。つまり、どこが本家とか、位の上下は無いのですよ。成田氏系図と違いますねえ。
どちらかと言えば、別府氏や奈良氏、玉井氏に対し、別々の氏族とする、私の考え方に近い表現ですわね。
続いて「亭主問う、その四家の藤原氏の方々というのは、(幕府の)引付衆(役人)だったのですか?。答えて曰く、西別府の郷に
丈六という大伽藍(九品仏堂)があります。(中略)この寺の伽藍には当初から、一尺五寸(約45㎝)の大黒像があったそうです。
その大黒像の背負っている袋の中に、一巻の巻物がありました。取り出して見ると、(この巻物には、)この寺(九品仏堂)の開基
当時の様子や、四家の由来を、つぶさに説明しております。」のだそうです。西別府村の回で登場した、安楽寺の九品仏堂ですわね。
九品仏の他に、七福神の大黒様も祀っていたのですかねえ?。大黒様の袋の中から巻物が出て来るなど、おとぎ話っぽい展開です。
おとぎ話、つまりウソってことですかね? まあそれでも、当時の伝説ですからね、先へ進みましょう。
続いて「その文書の趣旨とは、四家というのは、淡海公(藤原不比等)の十代の子孫で関白道長の子孫である、式部の大輔任隆が、
武蔵の国の太守として下向され、幡羅郡に着任され、郡司として幡羅太郎と称しました。この幡羅太郎のひ孫が、成田三位式部大輔
助隆です。助隆は、藤原氏ではあるが、八幡殿(八幡太郎義家)の伯父であった、とも伝えられています。安倍貞任・宗任の追討
(前九年の役)のため、八幡殿が奥州へ下向された際には、成田助隆は、時の大将軍である八幡殿の元へ駆けつけました。八幡殿に
とっては伯父である成田助隆が、わざわざ出向いて来るということで、(⇒以降右写真へ)中途で行き会い、お互い下馬して挨拶を
交わしました。それゆえ今に至るまで、成田下馬の橋とか言われたので、当時の諸侍達も、この場所でよく下馬したそうです。
(※どこ?、もしかすると、源頼義・義家父子が、途中戦勝祈願をしたと伝わる、三ヶ尻八幡神社あたりかな?)
この成田助隆に、4人の子がありました。次男は、左衛門督住従三位隆行、これが別府隆行です。三郎は奈良、四郎は玉井です。」
だそうです。 はて、どこかで聞いた話しですわねえ。成田氏系図とよく似ています。成田氏系図では、成田氏の祖先は、藤原行成の
次男、藤原忠基が、武蔵守として騎西郡に赴任したのが最初ということになっています。で藤原忠基の五代後の助隆の代に、成田郷に
領地を得て、初代成田助隆になった、というお話しですね。これに対しこの旅宿問答では、更に格が上がり、藤原不比等や藤原道長の
子孫である、と言うことになっていますので驚きです。ちなみに武蔵七党横山党説では、小野成任が初代成田氏だとされています。
で、このご先祖藤原道長説なんですが、旅宿問答だけが言っている説ではない様なのですよ。Wikipediaによりますと、江戸期に
新井白石によって書かれた「藩翰譜」の成田氏の系図も、先祖が藤原道長説なのだそうですね。(私は読んだことありませんが。)
とすると、何と新井白石も、旅宿問答に影響を受けて?「藩翰譜」を書いたのかなあ?、、、
成田助隆の子、成田四家誕生の順番は、成田氏系図と同じですね。でも次男の別府氏だけが、本名?を書いています。その前は、
四家の出自は別々だと、言っていましたけどねえ? まあ、この成田四家誕生の話しは、大黒様の巻物でのお話しですからねえ、、
ということは、成田氏系図を書いた成田長任は、この大黒様の巻物を見て、成田氏系図を書いたのでしょうかね? 逆にそれとも、
旅宿問答の作者は、成田氏系図に影響を受けて、訂正を加えて旅宿問答を書いたのでしょうかねえ?、、、
また、成田下馬のエピソードは、成田記にも同様のエピソードが描かれていますね。※挨拶の相手が、八幡太郎義家なのか、父親の
源頼義なのか?、という微妙な違いはありますけどね。また、三ヶ尻八幡神社の創建由来とも、関係があるかも知れません。何せ、
旅宿問答主人公の大夫は、三ヶ尻村の出身ということ、ですからねえ。(住んでいるのは、西別府村ですね。)
この文書が本当に、永正四年(1507年)の成立だとすると、成田氏系図の著者成田長任は、旅宿問答の内容に影響を受けたのかも?
と考えられるかも知れませんね。だってこの辺り、成田氏系図と、ほぼ同じ内容なんですからねえ、、、
さて話しは、大黒像の袋の巻物の話しから、別府氏・別府村のお話しへと移ります。(以降次回へ)



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