旅宿問答で、別府氏発祥の地?別府村を読むⅤ。

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。暑い夏が続いておりますが、今日あたり、梅雨明けでしょうかね?

 

 さて今回は、タイトル名称が変わっていますね。江戸幕府による公式地誌である新編武蔵風土記稿に代わり「旅宿問答」の登場です。

何故か?と言うと、この文書にも、古い別府村や別府氏の記述が出て来るからなんです。新編武蔵風土記稿的には、別府村や別府氏

なんて、全然大したことのない存在なんですよ。ですから、一応の義務として載せているだけ、の扱いになっているのです。ところが、

新編武蔵風土記稿以外の文献史料にも、古い別府村や別府氏の記述が出ているのですよ。まずこのこと自体が驚きなんです。何故なら、

全国的には、誰も知らない、名も無い武蔵国幡羅郡の別府村であり、地方の在地領主に過ぎない別府氏であるにも拘わらず、何故か

古い歴史史料に、別府の名前が刻まれているからなんです。(前回登場の、頼朝の下文もそうですわね。)

どうして別府の名前が出ているのか?と、不思議に思ってしまうのです。 ただ、その新登場文書名が、「旅宿問答」!というのは、

ちょっと怪しい感じなんですがねえ、、。 逆に皆さん、怪しいのはお好きですかね? と言う訳で、

 

 昔から別府村には、「宿」という小字名がある通り、東山道(中山道)沿いに宿場があり、村(郷)自体も古い歴史がありました

ので、別府村界隈の地誌?として、「旅宿問答」が書かれたのかも?知れません。上の写真が旅宿問答の抜粋で、別府村や別府氏が

登場している場面部分の頁を、抜き出しています。(左写真が1ページ目で、次が右側写真へです。) またこの写真文書は、国立

公文書館のデジタルアーカイブの「旅宿問答」で、塙保己一の続群書類従に、収められています。が、成田氏系図ほどには有名では

なく、作者不詳の文書であるようです。旅人と宿の主人が問答形式で、様々な話題を語り合っています。時代は、永正四年の記述が

あり、1507年頃(室町後期)の成立か?、と言われておりますので、それが本当であれば、成田氏系図よりも古い文書だ、という

ことになります。

但し、群書類従に収められている「旅宿問答」は、江戸中期の儒学者、伊勢貞丈が書いた「安斎随筆」の中に書かれている引用文で、「旅宿問答」の原本は現存しない?との、Wikipediaによる、良く判らない指摘?(※保元物語)もある文書なのですよ。※じゃあ、

続群書類従の旅宿問答は、一体何なのでしょうかね? と言う訳で「旅宿問答」、やっぱりどこか、怪しい感じがしますがね、、。

まあそこが、面白いのですがね。

 

 とは言え、まずは、左写真から見て行きましょうか。最初は宿の主人の紹介ですかね?、それとも旅人の紹介なのか?、曰く、

「関東は、武蔵の国、波羅郡(幡羅郡)の別府郷(別府村)に、彦右衛という大夫(武士?)がいる。元は同じ波羅郡の甕尻郷

(三ヶ尻村)の生まれで、、」だそうです。いきなりの別府村登場ですね。しかも武蔵国幡羅郡ですから、間違いありません。

まあ別府村も、東山道(中山道)沿いなので、熊谷宿の一部だったのかも知れませんね。三ヶ尻村は、新編武蔵風土記稿では、

東西別府村の直前の記述ですね。(まあご近所、熊谷市内。)で、次の詳細訳は省きますが、この大夫は、長享年間(1487年~

1489年)に起きた、長享の乱(山内上杉氏 VS扇谷上杉氏の戦い)で、関東大混乱の中、別府氏譜代ら一同と結束し、別府郷一帯

を安泰に保った人物なのだそうです。(ということは、元武士なのかな?)博識で弁舌も巧みな人物であるそうですが、どうして

こんな人物が、宿屋の主人か旅人をやっているのか?と思いますと、その先の文章(未掲示)で、米山寺という寺(不詳)に詣でる

ために、旅をしていることが判明したので、旅人であることが判明しました。時代的には、1500年頃の人物設定であるようです。

 

 で、中写真では左中程のページ、「この辺りは、何と言う土地か?と問うと、答えて曰く、関東は武蔵の国だと申す。それでは

武蔵の国のどこか?と問うと、幡羅郡の西別府であると答える。」ほう、西別府村が出て来ましたね。室町後期の1500年頃には、

何と既に西別府村が存在していた?、という証拠になりますかねえ? 以降、あなたは在家か山伏か?、私は大夫である、などと、

問答が続いて行きます。

 

 最後の右写真では、右ページ最後の行から、「上杉殿(管領山内上杉家)は、我らの主人であるが、上杉氏だけでなく、別府氏や

玉井氏、奈良氏、成田氏も皆んな、藤原氏の北家の出自であります。」だそうです。これは驚きますね、遂に別府氏だけではなく、

玉井氏、奈良氏、成田氏(成田四家?)も登場しましたね。しかも皆、藤原北家の出自なのだそうです。武蔵七党の横山党出自説が

崩れそうな記述ですわ。成田氏系図の主張を補強するような記述なんです。でも、この主人公(大夫)の出身地である三ヶ尻(甕尻)

村の甕尻氏は、何故か登場していませんね。確か、新編武蔵風土記稿には、鎌倉期に、甕尻太郎とか十郎とか小次郎の名前が、吾妻鏡

に出ている、と書いていますから、武士団甕尻氏も存在していたハズなんですけどねえ。甕尻氏は、藤原北家じゃないのかしらね?

 で、この旅宿問答の成田四家の記述は、成田氏系図の成立より、古い時代(1500年頃?)とされる記述なのです。もしかすると、

成田氏系図の作者、成田長任は、この「旅宿問答」の記述を読んでいたのかも?と、思ってしまいますね。

まあでも、別府氏に続く四家の順番は、何故か玉井、奈良、成田の順番なんですねえ。 成田氏が先頭(筆頭)ではないのですね。

さて、これは面白いことになって来ました。果たしてこの先は、別府氏や成田四家が、再び登場するのでしょうかね?(次回へ)