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新編武蔵風土記稿で、別府氏発祥の地?別府村を読むⅢ。

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。本日も梅雨空で、気温も高く、むしむししています。

関東の梅雨明けは、いつになるのでしょうかね? 

 

 さて今回は、別府氏の別府村の3回目、東別府村の古城跡から西別府村へです。前回は、東別府村の香林寺で終わってしまって

おりました。新編武蔵風土記稿の編者の、別府氏に対する酷い偏見に呆れてしまい、ついつい記述が長くなってしまったのでした。

この編者にとっては、あくまでも成田氏系図の成田氏が主であり、家臣?である別府氏などは、どうでも良い存在であるようです。

まあ編者の別府氏に対する評価と、別府村についての記述とは、本来別々であるハズなんですがねえ。だって別府村の調査の方は、

公務であるハズなのですから、、。しかし編者の中では、別府氏も別府村も、同じ低評価なんですね。

その意味で次の古城跡の記述も、そのような主旨の記述になるであろうことが予測されます。本文曰く「村の中ほどにあり、現在も

四方に土塁の跡が残っている。構えの広さは、東西四十間、南北三十間 (72×54m)ぐらいである。」1590年の小田原合戦時まで、

城は残っていたのですから、土塁の跡が残っているのは頷けます。しかし城跡の広さが72×54m程度と言うのは、城としては小さい

ですね。古城跡というよりは、玉井村(氏)の時の表現のように、陣屋跡とか館跡でも良かったかも知れません。それでも古城跡

としているのは、編者も別府氏の存在を、それなりに尊重しているのか?と、思ってしまいます。しかしそれは間違いであることが、

後の文で明らかになります。曰く「この敷地内に春日社(東別府神社)があり、前に書いている。神社の境内の外は年貢地(田畑)

である。」と言うことで、やはり暗に小さいと言っているんです。で、「言い伝えでこの地は、(成田氏系図にある)別府次郎行隆

から始まり、別府尾張守長清まで、数代に渡って居住したが、長清の子三郎左衛門顕清が、天正年中(1590年)に忍城に籠城して

(敗れ)、家禄を失い廃城となったと伝えられる。また、成田家分限帳に、永楽銭五百貫文(約2500石?)別府尾張守長吉と載って

いるのは、この別府尾張守長清のことだろうと言われているので、その頃の家禄は推測出来るだろう。」とのことです。戦国大名の

重臣クラスのサラリーでしょうかね? まあ成田氏系図に、ほぼ合致して(させて)いるので、編者のご機嫌はよろしいようです。

が、成田氏系図によれば、別府次郎行隆を初代とすれば、別府顕清は14代目に当たります。別府氏の歴史史料初登場は、奈良氏等と

同じく保元物語です。つまり保元の乱(1156年)に成人武士として登場している訳です。この人物を別府氏初代とすると、最後の

別府顕清が成人武士として忍城に籠城したのは1590年ですから、13代で434年が経過している計算になります。現代ですと1世代は

30年ぐらいと考えられていますが、この当時は人生50年の時代ですから、1世代は25年ぐらいが妥当と考えられます。(平均25歳

ぐらいで嫡子が生まれ、その25年後ぐらいに代替わりするという考え方。)とすると、13代ですから計算上では、325年後ぐらいに

なるハズなんです。つまり109年分ぐらい、平均値より長い、という計算になります。つまり13人の内の数人は、ものすごく長寿で、

且つ老齢で子を作った?、と考えなければなりません。あるいは、4人(4代)ぐらい、成田氏系図に載っていない人物が存在した

かも?、でも良いかも知れませんがね。まあですから、成田氏系図の別府氏系図も、一応合ってはいても、実は完璧と言う訳では

なく、何となく怪しいかも?、とは思われるのです。(作者 成田長任としては、うまく作ったハズ、なんですがねえ。)

 

 そしてこの疑問が増幅して来るのが、次の村、西別府村の記述で、になるのです。非常に短い、1ページちょっとの文章ですね。

東西別府村は、いつ頃分かれたのでしょうかね? 成田氏系図では、別府氏初代?別府行隆の子、能幸・行助の代(鎌倉初期?)に

東西に分かれたとされているようですが、本当なんですかね? 同じように西別府村から下増田村が分かれたのは、下増田村の項の

記述によると、元禄年(1688年)以前のことだそうですから。私は東西別府村も本当は、江戸初期に分かれたのではないかな?と、

考えております。つまり北条氏が滅びる戦国末まではずっと、ひとつの別府村、別府氏だったのではないか?と、思っているのです。

とは言え、まずは西別府村の方も見て行きましょうか。曰く、「領名、江戸行程、用水等、前村(東別府村)に同じ。」だそうで、

以降は地理説明です。西別府村の北側に、西別府村から別れた、(上増田村からの分村ではない)下増田村があるそうです。

その後の領地(知行地)説明は割愛します。高札場、小字名、沼の紹介に続き、寺社紹介になるのですが、神社は特記すべきものが

ないようです。(とすると、東別府村の春日社が、この地域の一宮なのかな?) で、寺院の筆頭に来るのが、九品仏堂になります。

創建が養老年中(奈良時代)の僧淡海と、古いからですかね? それともその後の、別府次郎行隆が、仏像6体を追加寄進したので?、

九品仏堂になった、という伝説からですかね? まあしかし、九品仏堂は、別府氏の子孫、別府甲斐守頼重が再興したと伝えられて

いますので、まあここから先が、現在の九品仏堂と別当寺院安楽寺の、実際の歴史の始まりなのでしょうね。

例えば、上之村の龍淵寺の例で言えば、再開基者である成田奏親あたりに、この別府甲斐守頼重は、相当するのだろうと思われます。

そこで九品仏堂の故事紹介、曰く「(別府)頼重は、文和三年(1354年)3月11日死去、戒名は寂照院峯常賛大禅門と号す。その後、

康暦二年(1380年)九月二日、左馬守氏満(鎌倉公方 足利氏満)は、7千余りの兵で鎌倉を出陣し、当郡別府の丈六(九品仏堂)に

陣を置き、この地別府村で軍勢を集め、この九品仏堂に祈願をし云々、この効果によって、氏満が小山へ出陣しようとしたところへ、

小山下野守義政が当所(別府村)に来て、自分の誤りを詫びたので、小山義政と戦わずに降参させたことは、この九品仏への祈りが

通じた結果である、と伝えられている。」(小山義政の乱)なのだそうです。でもこの故事、別府頼重とは何の関係もないですけど

ねえ。まあ九品仏堂の由来説明文ですからね、そりゃ仕方がないか。

 九品仏堂に続いて、別当(管理)寺院である安楽寺の紹介になりますが、宗派、山号等、型通りの紹介(僅か2行)なのですが、

でも開山僧の死去年の記録が残っている点は、素晴らしいと思います。だって、文和二年(1353年)ですからね、南北朝期ですよ。

これまで見て来た室町期以前創建の寺院は、だいたい寂年不詳だったじゃあないですか。唯一上之村の、龍淵寺ぐらいですかね? 

でもあの創建年はインチキ臭いので、、。しかも、成田氏の龍淵寺よりも古いのですよ。にも拘らず編者は、別府氏の寺院の方には、

まったく関心が無いようです。もしかしたら、成田氏系図の記述と合わないからですかね? さて、安楽寺と堂宇紹介に続いては、

別府頼重墓の記述になりますが、これは次回へ。

 

※謹告:次回、7月8日(土曜日)のブログは、都合により、一回お休みとさせて頂きます。悪しからずご了承下さい。