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新編武蔵風土記稿で、別府氏発祥の地?別府村を読む。

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。本日は、梅雨の中休みで快晴ですが、暑くなりそうです。

 

 前回、Wikipediaなどで偽書として抹殺されている?、成田氏系図について、私は歴史史料として文化財であると申し上げました。

何故なら、この新編武蔵風土記稿を始め、多くの歴史文献の中で、何度も引用されているからです。このことは、昔の日本社会の

中で、成田氏系図が、広く認知されていたことを示しています。ですから、成田氏系図を消し去ることは、この新編武蔵風土記稿

を含めて、日本の歴史そのものを否定することになるのです。つまり歴史を、正しい・間違っているとか、良い・悪いなどの基準で、

単純に切り捨ててはいけないのです。歴史ファシズムになってしまいますからね。評価・解釈などは時代と共に、変化しますよ。

最近マスコミ等で注目されている「椿井文書」だって、同じじゃないですかね?、、、あったままを、謙虚に受け止めることです。

 

 さて今回からは、玉井村に続き、東西別府村の登場です。成田氏系図で別府氏は、初代成田助高の次男が、別府次郎行高を名乗

ったことに始まるとされています。新編武蔵風土記稿では、この村は、さていったい、どのように書かれているのでしょうかね?

しかし別府村は、大分県だけではなく全国各地にいっぱいあり、また別府氏も、薩摩などにも居ります。武蔵国幡羅郡の別府村は、

他の別府村・別府氏と、どう違うのでしょうかね? 

 

 で最初は、東別府村からですが、右側の写真のほとんどは三ヶ尻村の記述です。こちらの村名を冠した三ヶ尻氏も、平安末期の

前九年の役で登場しています。やはりこの時代の熊谷市内近郷の村々は、こぞって村ごとに、武士団を結成していたことが、良く

判ります。で、最後の4行からようやく、東別府村の記述になります。「東別府村は古い村で、別府小太郎清重より代々、別府氏

が居住した場所の地名である。平家物語や源平盛衰記にも、この別府清重・義重父子の名前は登場している。大昔は村に東西の別

は無く、ひとつの村だったが、2村に分かれたのも遥か昔で、正保期(1644~1648年)以前のことである。」とのことですが、

成田氏系図では、別府氏初代?別府次郎行隆の子、能行、行助が、それぞれ東西の別府氏になったとされています。(鎌倉初期?)

でも別府清重・義重父子の登場は、一の谷合戦の場面ですから、1184年のことですね。ですからその時点では既に、別府氏が存在

していたということなんです。でも成田氏系図には、別府清重・義重父子の名前は無いのですよ。これをどう考えるのか?、なの

です。そして更には、この新編武蔵風土記稿の編者が、成田氏系図に名前のないことを、一体どう解釈したのか?、なのです。

 

 本文続いて「また下増田村も、元禄期(1688年~1704年)の地図改定時に、西別府村から分かれていたようなので、ひとつの

村であった頃は、さぞかし広い村だったのだろう。」でその後、村の地理説明になるのですが、上奈良村や前回の玉井村にも隣接

しているようです。このような地理状況なので、成田氏系図の四兄弟伝説が、生まれたのでしょう。でも、お隣り同士だからこそ、

合戦の時などでは、一緒に働いたのでしょうね。だから吾妻鏡などでは、いつも一緒に登場するのです。そして西隣りは、西別府村

です。続いて別府村の領地変遷、「大昔(1500年代)は、成田下総守(成田顕泰・親泰父子)の所領だったが、徳川家康公御入国

(1590年)以降は、~云々」と、江戸期以降の領地変遷については非常に細かく、長々と記述しています。 が大昔、豊臣秀吉の

小田原攻めまでは、別府氏の所領だったとは、書けないようですね。だったら、北条氏の所領だった、でも良いと思うのですがね。

いずれにせよ別府村は、北条氏が滅ぶまでは、別府氏が在地領主だったのですがねえ? しかし編者は、在地領主であった別府氏の

存在を、敢えて矮小化していると思われるのです。別府村の所領の話しをしているのに、主従関係の話しになっているからなんです。

戦国末期は、成田氏の家臣だったかも知れませんが、室町期は、成田氏の家臣よりは、上杉氏の家臣だったかも知れませんよ。まあ

確かに、戦国末期に別府氏は、成田氏の家臣でした。成田記によれば、別府尾張守長清・顕清の代には、忍城で成田氏長、成田長親の

家臣として豊臣秀吉軍と戦い、敗れたそうですからね。しかし別府村は成田氏ではなく、ずっと別府氏の所領だったハズなのですよ。

編者は、これを知っていながらわざと、成田下総守(成田顕泰・親泰父子)の所領だった、と言っている訳なのです。なので編者の

この別府村の記述は、間違いであると言わねばなりません。在地領主である別府氏の存在を、消し去る表現だからです。封建社会に

おいて土地の領有は、重層的なものですから、どの部分で切り取るかによって、領地の捉え方は変わって来ることぐらい、編者は

判っているハズなんですけどね、だから私は、敢えて「わざと」、と言っている訳なのです。

 

 さて続いては、高札場数と小字名の紹介ですが、特に見るべきものはありません。その後、神社紹介に移ります。最初に村の鎮守

として、榛名権現社を挙げていますが、本当の村の一宮ではなさそうです。続いて、春日社(現東別府神社)が登場します。

「昔は城の鎮守だったそうで、現在は古城跡にあって、稲荷を合祀している。思うに当社は、延喜式神名帳に登場している、幡羅郡

白髭神社であると式内神社考(神名帳考証)に書かれているが、当社にその伝承は無い。また、近隣の東方村の熊野社も、式内白髭

神社であるとの言い伝えもあるが、二社ともに、明確な証拠はない。」とのことですが、この記述をどう読み解くか?、なんです。

まあこの春日社が、東別府村の一宮なのでしょう、歴史も古そうですからね。何せ、延喜式神名帳に記載の式内社かも知れない?と、

言われていたぐらいですからね。しかし編者は、神社に言い伝えが無いとして、否定している訳です。本当は別府氏城の鎮守であった

点が気に食わないのかも知れません。上奈良村の奈良神社の時は、やはり由緒不詳にも拘わらず、式内社だ!と、騒いでいましたけど

ねえ。どうも真摯に向き合っていないように感じられるのです。つまり編者は、在地領主である別府氏を、あまり尊重していないの

ですよ。所詮、成田氏の家臣の神社でしょ?と言う態度なのですわ。このことは、次の香林寺以降の記述で、より明らかになります。

(次回へ)

 

<東別府村、春日社(東別府神社)、別府城跡への行き方>

①JR熊谷駅前より、国際十王交通バスで籠原駅行きに乗車、⇒別府第二公園入口バス停で下車。

②別府第二公園へ直進、⇒公園を過ぎて突き当りT字路を右折、⇒すぐ左折、直進、⇒2つ目のT字路地を右折、⇒左手に東別府神社

 の案内石碑を左折、⇒直進。