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新編武蔵風土記稿で、成田氏発祥の地?上之村を読む。Ⅳ

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。本日土曜日の天気は、久しぶりの晴れですね。

 

 前回に引き続き今回も、本文が長くなりそうですので、今回も枕の方は割愛させて頂きます。お許し下さい。

 

 さて今回は、上之村の本当の最後、上之村新田・箱田村で、僅か1ページ程度の記述です。また村名も特殊な書き方です。普通に

箱田村じゃあダメなんでしょうかねえ? 何故敢えて、上之村の新田地区と、しているのでしょうかね? 非常に作為的な感じです。

奈良村の時の中奈良新田村は、独立した村でしたけれどねえ。箱田村は、独立した村ではない印象の表記になっている訳なのです。

つまり編者の中では、あくまでも上之村付属、としての新田箱田村のようです。しかしこの表現は通用しない?と、編者自身でも

自覚しているように思えます。何故なら本文の最初から、弁明しているからです。曰く「村民の話しによれば、この地は上之村の新田

とは言われているが、箱田の地名も古いもので、昔は箱田三郎とか言う者が住んでいた地であるとか言われている。また成田氏系図

には、箱田右馬允、その子刑部丞広忠、その子三郎兵衛尉能忠、その子三郎助忠などが伝えられているが、彼らは成田氏の一族であり、

この地に住み、箱田の地名を家名にしたのであろう。」と解説しています。ですから箱田の地名は古いのだと言っている訳ですね。

でも、「思うに、正保期(1644年~48年)の地図には、この箱田村の名前は見えず、元禄(1688年~1704年)の改訂地図で初めて

名前が載っているので、箱田と言う村名は、昔は上之村の小字名で、正保期より後に、上之村から分村したので、箱田の前に上之村

新田を冠したのだろう。」と、苦しい言い訳説を述べています。大昔には、この地に箱田村が存在したかも知れない?、などとは、

まったく考えられないようですね。まさにこの編者、記録文書は重視するが、村民の伝承などは一切重視しない、との姿勢なんです。

 

 その後、箱田村の地理が示され、続いて用水の説明になっている訳ですが、この用水の説明は、箱田村が上之村の新田ではない事を、

いみじくも証明するような説明になっています。曰く「用水は、成田用水を引いている。この用水の元は、広瀬村で荒川を分水し、

隣りの石原村で2つの流れになり、ひとつは肥塚村を通って上之村に入り星川になり、もう一つの流れは、隣の石原村から直接に

箱田村に入っている。成田用水の入り始めである。」だそうです。つまり上之村からは引水していないのですよ!、これでどうして

上之村の新田なのでしょうかね? 編者はおかしいと思わないのですかねえ?、、続いて領地説明、高札場は存在しないようです。

堂宇説明は省略します。ですから私、箱田村とは、何となく過去を消し去られた村ではないか?、という印象を、強く持つんです。

だって正保期(1644年~48年)の地図には、箱田村は無かったのですよね?、多分それ以前の成田時代においても、箱田村の村名

は、無かったのだろうと思われます。でも大昔には、箱田の小字名地名ぐらい?は、あったのだろうと、編者も認めている訳です。

上之村には、小字名地名で成田がありましたからねえ。でも昔は、上之村も含めて、大成田村だったハズと、言っている訳です。

しかし編者は、何とか箱田の存在を、矮小化しようとしているように見えますね。何故なのでしょうか? 私それは多分、編者も

後代の成田氏が、箱田氏の歴史を塗り替えて、成田氏系図を作り上げたのであろうことを、実は感じ取っていたからなのだ、と

思うのですよ。つまり編者は、知っていてわざと、とぼけているのです。

 

 はっきり言えば成田親泰は、父成田顕泰以降の新たな成田氏の家系を権威付けるために、上之村を父祖の地と定め、菩提寺龍淵寺

を建立しました。しかし当時は上之に、箱田氏の伝説が存在することは、知らなかったかも知れません。箱田氏の存在を知ったのは、

成田氏系図を作成した、成田兵助長任でした。新たな成田氏伝説の完成のためには、箱田氏が存在すると、つじつまが合わなくなり、

困るのですわ。そこで成田兵助長任は、箱田氏の伝説を消し去ろうとしたのでした。しかし古くからの言い伝えにより、箱田氏の存在

自体を消すことは出来ません。ですからそのやり方は、箱田氏を成田氏の庶流と定め、良く判らない存在にして、ごまかしたのです。

私は、箱田氏が本家で、古い成田氏は、箱田氏の分家だったのではないかと、思っています。だって、上之村の中の小字名で、成田

の地名が、江戸後期もちゃんと残っていたではありませんか。あの小字名地区だけが成田、つまり古い成田氏の土地だったのですよ。

まあしかし実際には、成田顕泰以降の成田氏は、その古い成田氏とも、系統が違う訳なんですけどねえ、でも 作者成田兵助長任は、

成田氏系図で、古い成田氏を、結び付けてしまったのですよね。元来、武家の系図と言うのは後代の作ですから、どうしても作為や

虚飾が紛れ込みます。ですから成田氏系図であれ、武蔵七党系図であれ、そういうものとして、慎重に吟味しなければなりません。

新編武蔵風土記稿の編者も当然、そのような姿勢で臨んだハズなのです。そして風土記稿の編者は、この作為を、調査の過程で理解

してしまったのですよ。しかし成田氏系図を否定することは出来ません。武蔵国の有力氏族である成田氏の系統を、侮辱・否定する

ことになるからです。封建社会ですからね、そこで編者が行ったのが、大昔の成田氏や箱田氏については、成田氏系図の記述のまま、

さらりと流して、良く判らないとして、後代成田下総守顕泰以降の成田氏については、詳細に記述する、という手法だったのです。

色々揉めたくなかったのですよ、だって編者は官僚ですからね、、。  まああくまで私の推測です。証拠はないのですがね。

 

 地図に無かった箱田村については、少しお示し出来る傍証ならばありますよ。それは現代の熊谷市の行政区域表示(住所)について

なんです。実は上奈良村も中奈良村も、中奈良新田村も下奈良村も、 全て現在の熊谷市の住所表記に、江戸後期がそのまま残って

います。まあ、上之村も残っていますがね。では箱田村についてはどうなのでしょうか?、現在の箱田は、何と箱田1丁目から箱田

7丁目まで、広大な区域を持っているのですよ。つまり、後代の成田氏によって消されたハズの箱田村は、現在では再び、地名として

古名が復活して来ている訳なんです。しかも、上之地区域の中にも、飛び地として箱田が複数存在しているのです。(箱田の方が古い

からか?)現在の熊谷市の住所表記が、昔の地名表記を踏襲しているとすれば、本当の箱田村は、実は上之村より大きかった可能性も

あるのでした。(つまり、全部が箱田村だった?)全然、上之村付属箱田村じゃあないのですよ。この箱田村が、正保期(1644年~

48年)以前の地図には存在しないのです。これには領主成田氏による大きな作為が、強く感じられるのです。もちろん編者も、それを

感じていたハズなのでした。ですから私の推論としては、忍を本拠地とする成田顕泰・親泰の時代に、父祖の地として箱田村を消して

上之村を定め、菩提寺龍淵寺を開基したのだろうと、考えるのです。もちろん、当時(1500年代)も、既に伝説であった、当地の

成田氏や箱田氏、秋葉氏などの伝説を、後代の成田氏に結び付けたのは、成田氏系図を書いた、尾張家家臣、成田兵助長任なのですが、

更にこの時一緒に、奈良氏や別府氏、玉井氏などの伝説も、成田氏に結び付けてしまったので、もっとややこしくなったのでした。

何故、成田兵助長任は、奈良氏や別府氏、玉井氏を、同族に結び付けたのでしょうか?その理由は、ご近所同士の氏族だったからです。

平安末期当時の東国では、自分達の土地を守るために、村単位で武士団氏族が結成されるブームが起きていたのです。彼らは、自分達

の土地であることを主張するために、その土地の名前(村名)を氏族名として名乗りました。箱田氏、成田氏、別府氏、奈良氏、玉井

氏などです。その後彼らは、保元物語や吾妻鏡に、何度も登場する氏族になったので、後で名前を消すことは出来ません。だから同族

に変えてしまったのですよ。つまり単なる地縁関係を、血縁関係に変えてしまったのです。その方が、成田氏系図の説得力が増すハズ、

だと考えたのでしょうね。 まあこのような私の説を、どのようにお考えになるかは、皆さん次第ではありますがね、、。

 

今回で、上之村は最後になりますので、私の上之村の由来説を申し上げます。編者は、大昔に多分、大成田村があって、その上之地区

(北側)であったので、上之村になったのだろうと言っています。でもこの説だと、上之村の中に小字名として成田が存在する理由を

説明出来ません。ですから私は、大昔に箱田村があって、成田親泰が父祖の地と定めた成田(小字名)が、箱田村の上之地区(北側)

だったので、上之村という村名になったのだろう、と思っています。編者の説よりは、リアリティがあると思いますがねえ、、

 

 さて、こうなるとやはり、別府村や玉井村の記述の方も、良く見なければなりませんですね。(以降次回へ)