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新編武蔵風土記稿で、成田氏発祥の地?上之村を読む。

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。天気は晴れていますが、強風で、気温は高いですね。

 

 現在、マスコミやネットでも、チャットGPTの話題で持切りの状態な訳ですが、私は自分のPCブラウザーでは、マイクロソフトの

Edgeを使用しています。で、Edgeの検索では、Bing AIのチャット機能も使用出来ますので、チャットGPTとBing AIを、使い比べる

ことが可能なんです。まあどちらも、マイクロソフトの資本が入っていて、GPT-4という言語変換モデルを元にしている点では、同じ

ような機能なんですが、どちらが優れているのか?を、それぞれに聞いてみた訳です。結果は、まあ同じ資本系列ですから、どちらも

優れていて、目的や用途によって異なる、という無難な回答でした。機能の違い(優位点)については、チャットGPTは、美しい言語

表現が売りで、Bing AIは、検索と連動しているので、情報の新しさが売りのようです。逆に欠点としては、チャットGPTでは、情報

がやや古い、Bing AIでは、利用制限(1会話5回まで)が挙げられていました。まあユーザー側が何を求めるか?ではあるんですが、

いずれも色々応用は可能だと思います。しかしまだ少し、両者とも開発途上という印象ですね。以下、その理由です。

Bing AIの方が優れているように思われるかも知れませんが、検索と連動しているので情報の速さがウリです。しかし正誤については

ちょっと怖い気もします。正解ではなくあくまで参考意見を求めてみる、というスタンスで行くべきでしょうね。何故そう思うのか?

と言うと、私以前、眼底カメラ屋をやっていたものですから、最近川口春奈のCMが活発なニデック(旧日本電産)と、眼科機器の

ニデックを、Bing AIチャットで検索してみたんです。その結果、同じグループ会社になったと頑強に主張するんです。何度言葉を

変えて質問しても返答は同じなんです。(4月前半時点)固執するんですね、恐ろしいと思いますよ。信じる人もいますのでね、、、

また一方のチャットGPTについてはどうでしょうか、言語変換トレーニングが良く積まれているので、企業や組織が、日常業務の

オペレーションツールとして、活用するには良いかも知れませんね。ただ、業務学習トレーニングは、もちろん別途必要ですがね、

 

 さて今回からは、奈良村から上之村に移ります。現在の熊谷市上之地区の旧村名ですね。言わずと知れた、成田氏の本貫地であり、

発祥の地?、です。ですから新編武蔵風土記稿の記述も、何故か他村に比べて多くなっています。熊谷市は、江戸期以前の古い村名

(地名)が、現在もそのまま行政地区名として、残っている点が凄いと思います。奈良地区も別府地区も玉井地区も、地名(旧村名)

としてちゃんと残っている訳です。でも、成田氏の発祥地?だけが、成田ではなく、上之という地区名(旧村名)になっています。

これってどういうことなのでしょうかね? その理由を、新編武蔵風土記稿の上村の部(左写真)では、まず最初に説明しています。

何故なら、この新編武蔵風土記稿の編者の方も、やはりおかしいと、少しは思っているようだからなんです。

曰く「古い地名は、小名=小字名に成田の地名が残っているだけだが、いつの頃か上之村に変わっている! 多分、足立郡に石戸上村

や石戸下村があるように、この地も昔は、成田上村、成田中村、成田下村と分けて呼ばれていたが、その後成田の二字を省き、更に

その後、中村、下村を上村に統合して現在の上之村になったのだろう。その証拠には、村内を四区画に分けて、上組、中組、下組、+

成田、と呼んでいるので、それと同様である。」とのことです。まあそれなりに、説得力のある説明ではあるのですが、私にはどうも

解せません。だって前回まで見て来た奈良村は、ちゃんと奈良の表記も残っているからです。ましてや上之村は、本家成田氏の本貫地

なんですよねえ? 分家?である奈良村や別府村、玉井村は残っているのにねえ?、やはり何かおかしいのですよ。単純に考えれば、

古くからある地名(村名)とは、ご先祖様そのものですから、そのままの形で残っていることが多いハズ、なのですよ。現在では、

旧村名である上之が小字名の地名として残っていますが、成田の地名は、上之のどこにも残っていないのですよ。本当に旧上之村は、

成田氏の発祥の地なんですかねえ? 私は怪しいと思いますよ。だって、成田氏の怪しさのせいで、奈良氏までも、怪しい存在!に

されてしまっていますからねえ(Wikipedia)。私には、新編武蔵風土記稿の編者は、成田氏系譜を妄信し過ぎているように見えます。

まあこの件は後ほどに、と言うことで、写真掲示の上之村の記述の方に進みましょう。

まず、「この上之村、東は、池上村、小鋪田村、持田村三村に接し、南は、戸出村、平戸村、箱田村の三村、及び熊谷宿などに接し、

西は肥塚村、北は上下川上村二村に接している。」のだそうです。とすれば、これらの隣接する村々にも、「大成田村圏」だったと

すれば、古い時代の成田氏の痕跡があるハズじゃあないですかね? まあ調べてみても、多分出て来ないような気もしますがねえ、、 

 さて続いて、村の面積と領地の変遷の説明が続きます。でも領地の変遷が「天正の頃は」で始まるのも、少し情けない記述だなと

思います。得体の知れない奈良村などならいざ知らず、小なりとは言え戦国大名であった成田氏の本貫地が、わずか200年程度しか

遡っていない、戦国期の成田下野守(成田氏長)から説明が始まっている点も解せません。それ以前もずっと、城や本拠地は忍に

移っていても、少なくとも上之の地だけはずっと、成田氏の領地だったハズではないのですかね?、本貫地ですからね。成田氏の

烏山移封以降の領地変遷については、こんなにも詳しく説明されているのにもかかわらず、なのです。

成田氏が大好きなハズのこの編者、戦国期以前の領地史料を見つけられなかったのですかねえ? この記述に続き、高札場の数と、

小名(小字名)の説明に移りますが、それぞれの小名の説明でようやく、各小名の由来と成田氏を、成田氏系譜を元に、小名ひとつ

ひとつに照合させようとしています。(右写真、次ページへ)他村の記述では、あり得ませんね。秋葉の小名も出て来ます。一応、

成田氏系図の記載に沿って、秋葉という小名(小字名)の由来について説明しています。が、現在の熊谷市の地名にはありません。

小名に続いて、寺社の前に星川が出て来ます。まあこの地域の大灌漑用水路ですからね。江戸時代に何度も大開削工事が行われた

ビッグプロジェクトでしたからね、記載されるのも当然でしょう。しかし江戸期以前にも、古くから星川の名で、用水路が存在した

ことは、当地の新田開発の歴史を見ても、良く判ります。星川の項に池とあるのは、現在の熊谷市の庭園、星渓園の玉の池ですね。

そして星川に続いては、久伊豆社の項になるのですが、これ以降は次回へ。