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新編武蔵風土記稿で奈良村を読むⅦ

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。強風ですが良いお天気で、ゴールデンウィークに突入です。

 

 現在、ネットやマスコミでは、チャットGPT(対話生成AI)についての話題が溢れています。IT業界における大技術革新だと言われ

ています。PCが出現した時?、と言うよりは、1990年代後半の、ネット検索が普及し始めた時期に似ている状況かも知れません。

AIがまた一歩、人間に近づいたと言えるかも知れません。少なくとも近い将来、人間に寄り添う存在になるだろうことは間違いない

でしょう。この影響は、スマホやPCを使わない人々にも及びます。つまり、好む好まざるに関わらず、日常の人々の営みの裏側で、

チャットGPT(対話生成AI)が、常に活躍している社会になるだろうという事です。単にAIが言語コミュニケーション手段を持った

だけ、じゃあないのですよ。チャットGPT(対話AI)の登場によって、いよいよ人間の多くの仕事が、AIロボットに置き換わることが

可能になるのです。特に、ホワイトカラーのルーチンデスクワーク(中間管理職?)は、ほぼ全てチャットGPTの技術で、置き換える

ことが、可能になりますよ。多分将来の人間の仕事は、現場での仕事ばかりになるでしょうね。単純なワンパターンのデスクワーク

などは、AIでの置き換えが可能になるので、人間が必要無くなるんです。コレ本当ですよ。例えば、教師とか弁護士や裁判官のお仕事

だって、AIを鍛えれば、チャットGPT技術で、代替可能になるんです。良い面で言えば、現在問題になっている、教師の長時間労働

の問題も、チャットGPT技術の活用で、解決可能になるハズです。ですから近い将来は、人々の日常の営みの裏側で、チャットGPTの

AI技術が、自動で活躍している社会になる、と言う訳なのです。つまり人間は、チャットGPTの指示!に従って、現場で働くのですよ。

でも安心してください、一般的・平均的サラリーマンの、単純デスクワーク業務や電話対応業務などは不要になりますが、現場での

作業(納品、設置、点検等)は必ず残りますよ。現場の仕事の方が、価値ある仕事になるんです(現場作業の給料が上がる?)。また、

特殊な感性を持つ人や、一般人とは違う異質な人間は、従来は組織から遠ざけられていた訳ですが、逆に必要な人間になるでしょうね。

何故ならチャットGPT(対話生成AI)の知の源泉は、所詮、人間の知識(ネット情報)の集積でしかないので、「標準最適化」以上の

ことは出来ないのですよ。つまりブレークスルーは、いつも特殊な突然変異人間にしか出来ないハズなのです。

とは言うものの、本当にそうなのかしらねえ?、一抹の不安が、、、

 

 さて今回の写真頁で、奈良村(下奈良村)の最後になります。で、集福寺の続きで、最後の数行に何と「下馬札」が登場しています。

下馬とか下乗とか書いてある立て札ですわね。有名な寺社の門の入口に、よく立っています。こんなもの遺物なんですかねえ?

曰く「この下馬札は、東照神君家康公がこの寺を訪問され、住職の桂岩に面会された時に賜ったのだと伝えられているが、もっと

古い、成田氏がこの寺を建立した当時から、立ててある下馬札なのではないか?」などと書いています。ちょっとびっくりですね。

何かその根拠でもあるのですかねえ? まあこれほどまでに、この編者は、成田氏についての執着が強いらしいことが、これらの

記事からも良く判るのです。こんな立て札、有力寺社の門前なら、どこにでもありそうに思えますけどねえ。あ!、前回文と同じだ!

まあ何としても、成田氏との関連性を見つけ出したいのですねえ。その後、他寺院の紹介が少しありまして、下奈良村の章の最後は、

何と、下奈良村出身の偉人の紹介になります。慈善家 吉田市右衛門だそうです。下奈良村の名主であったそうで、名字帯刀も

許されていたそうです。ずいぶんと長文で、吉田市右衛門を紹介していますね。現在では、ほとんど知られていない人物ですが、

埼玉県熊谷市では、今でも郷土の偉人として知られているようです。事績などについては、掲示本文をお読み頂くか、ネットで吉田

市右衛門を検索してみて下さいませ。現代語訳は割愛します。でもどうして編者は、最後に吉田市右衛門を載せたのでしょうかね?

まあ確かに当時(江戸期)の偉人ではあると思うのですが、新編武蔵風土記稿と言う地誌に、偉人の伝記はふさわしいのですかね?

そこで私、この編者が、どうしてこの人物を掲載したのか?を推測出来る文章を提示させて頂こうと思います。吉田市左衛門の記事

の最後の部分です。「この(吉田)市右衛門の先祖は、成田下総守(成田長秦)の家臣で、それ相応の武士であったが、成田氏が

(1622年の烏山藩改易で)没落して以降は、農民になったと伝えられている。このことは、四方寺(村)の(吉田)六左衛門の条に

書いてある。」のだそうです。お分かりですよね?、成田氏と関連のある有名人だから載せたのですよ。ちなみに、成田下総守長秦

とは、集福寺の開基者である成田親秦の子で、吉田市右衛門の墓は、集福寺にあるのですよ。完璧に、成田氏繋がりである訳です。

結局、この新編武蔵風土記稿の編者は、最初から最後まで、奈良村各村の中に、成田氏の痕跡を見い出そうとしているのですね。

どうしてこれほどまで、成田氏や奈良氏の痕跡を追いかけるのでしょうか? 多分それは、この当時(江戸後期)既に、成田氏や

奈良氏の記憶・痕跡が、各奈良村では、失われつつあるからなのだ、と思います。そして編者にとって村を知る唯一の手掛かりが、

江戸前中期(1684年頃)に成立した成田氏系図だったのでしょう。ですから編者は、各村々において、成田氏系図での記述との、

歴史復元照合作業をしていたのだろう、と思われるのです。※最初に、各奈良村が、成田氏関連の村である、という強い思い込みが

根底にありますよね。これも逆に、成田氏系図からの影響なのでしょうね。

つまり多分、新編武蔵風土記稿の奈良村の項とは、村を知るための唯一の史料である成田氏系図に基づいた、成田氏系図に則した、

各奈良村の歴史復元作業!、なのですよ。

しかし、編者の懸命な努力にもかかわらず、逆に見えて来るのは、昔の成田氏の領地でありまがら、成田氏の痕跡が意外と少ない、

と言う状況ではないでしょうかね? 掘り起こしたくとも、痕跡があまり見つからないのですよ。だからこそ編者は、各村々に、

成田氏の痕跡を、懸命に探し、何とか結び付けようとしているのですよ。だとすると、各奈良村以外の成田氏関連の村々(上之村、

別府村、玉井村等)にも多分、同様の努力が行われていたのでしょうかね?(次回へ)