いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。最近の報道ですと、コロナはまだ収まっていないようですね。で、
今から3年前のコロナ感染爆発の当初、コロナ治療薬として期待された薬がありました。富士フィルムが開発したアビガンです。
覚えていますかね? 3年前は、2月にダイヤモンドプリンセスによってコロナが持ち込まれ、3月には日本全国に感染急拡大して
政府にコロナ対策本部が出来て、4月には政府の緊急事態宣言が、安倍首相より出されたのでした。そんな日本中の大混乱の中で、
多くの人々の希望の光となったのが、コロナ新治療薬としてのアビガンでした。ホントはインフルエンザの薬だったんですけどね。
あの当時は未知の病気であるコロナに対し、新薬開発では時間がかかるので、何か効く薬はないものか?と、既存薬を色々調べて
いた時期だったのですね。これに白羽の矢が立ったのが、アビガンでした。安倍首相が、症状改善効果が出ている!と、発言した
ものですから、国民の期待は大きく膨らみまして、アビガンは希望の星となり、コロナの治験すらまだやっていない薬にも拘らず、
何故か観察研究と言う名目で、患者投与が認められたのでした。富士フィルムの株価も上がりました。まあ国民の期待圧力による
影響もありましたが、アビガンの投与決定は、完全に政治主導でした。つまり科学的手法・手順を踏んでいなかった訳なのです。
多くの税金も使われました。しかし観察研究の結果は、どうだったのでしょうか? 多くの国民が熱狂した割には、結果を知って
いる人は少ないかも知れませんね。何故なら、政府が大々的には結果発表していないからなんです。結果はもちろん、コロナには
効果なし、でした。まああれから3年も過ぎていますからね、国民もアビガンなんて、忘れているかも知れませんしね、安倍首相も
亡くなってしまいましたしねえ。と言う形で、アビガンの観察研究投与の歴史は、無かったことにされようとしています、、、。
でも、これに釈然としないのは、私だけなのでしょうかね?、、、
さて、前回の中奈良村、長慶寺の説明の後は、中奈良村内のその他寺社堂宇の列挙で終わっています。ほかに有名な寺社もなく、
存在の記録だけで、見るべきものは特にありません。
続いて掲示の左写真の左側ページ、中奈良新田村の記述に移ります。新田村との名からも判るように、中奈良村から別れた村で、
地理説明や領地の経緯等、通りいっぺんの説明だけで、右写真の高札場の数と、小名(今回は小字名かな?)、寺社の列挙などで、
特に見るべきものはありません。新田開発による新しい村ですからね、まあしようがありません。
そしてその後最後の下奈良村の記述(右側写真)に移ります。他村と同様に、地理の説明や領主の変遷の記録が続き、高札場、
小名(小字名)の名前と続きますが、特筆すべきものはありません。その後は、村内寺社の紹介です。神社の列挙はそこそこに、
寺院の一番手として、集福寺が紹介されています。「宗派は禅宗の曹洞宗、上野国(群馬県)新田郡太田町(太田市)の金龍寺の
末寺で万頂山と号す」のだそうです。寺領20石は、慶安九年(1657年?)に朱印状を得ているそうですから、前回の長慶寺
よりは新しいようです。「大昔は臨済宗で、開山した園明国師は、鎌倉時代1298年10月13日に亡くなっている。その後、1504年
~1521年の間に、桂室秀芳と言う僧が、曹洞宗に改めて開山したとされる。この僧は、1549年6月18日に亡くなっている。」と、
ここまでは、まあ前段です。この先、「開基(寄進者)は、式部大輔助高(成田氏初代)10代目の成田上総之守親秦で、法名は、
貞岡宗蓮庵圭と号した。仏門に入り、この村に隠棲し、そしてこの寺を寄進し、1524年6月8日に亡くなった。親秦の住まいは、
この寺の少し西側にあったらしいが、現在では良く判らない。成田氏の系譜にも、この村に隠居して、この寺を建立したことが
記載されている。」とのことで、編者にとってはこの点が、重要であったのだろうと思われます。つまり、成田氏の寺である、と
言う点ですね。何故編者にとって、この点が重要であると思われるのか、と言うと、この文章の後に「御討ち入り(小田原攻め?)
の後、東照宮(徳川家康)が、忍城から鷹狩りに来た時、この寺に寄り、住職の桂岩に会った。その後桂岩は、慶長年中(1596年
~)に家康より江戸に呼ばれて、元神田に寺領を拝領し云々。」とあります。編者は、昌平坂学問所の職員ですから、幕臣であると
思われます。それにも拘わらず、東照神君家康がこの寺を訪問し、江戸に寺領を得たという事績よりも、さほど有名でもなく情報も
乏しい、成田親秦のことを、先に長々と述べている訳です。この編者が、いかに成田氏についてご執心であったのかが、判ります。
ちなみに家康から拝領した寺院は、本郷駒込の高林寺と言う、江戸の有名寺院になっています。その本山が、実はこの集福寺だった
と言う訳なんですね。こちらのエピソードの方が、集福寺の解説には、よっぽどふさわしいだろう、と思われるのですがねえ、、。
更に続く文章では、天正年間に豊臣秀吉から集福寺宛てに出された、禁制文書も保管していると書いてあります。お宝ですわね。
続いては鐘楼の銘が出て来ます。「元和年中(1615年~1624年)にこの鐘楼を寄進したのは、幡羅郡の道ヶ谷戸村の鈴木主悦助
重縄だが、延宝六年(1678年)に鈴木主悦助重縄の子孫が再度鋳造したと書いてあるが、この鈴木主悦助重縄は、成田氏の家臣!
であったと、道ヶ谷戸村では言われている。」などと、編者はまたまた、成田氏との関連性を持ち出して来ています。
この新編武蔵風土記稿の編者は、様々な奈良村の歴史・遺物を調べているのではなく、各奈良村の中に、成田氏との関連性ばかりを
調べて書いている様に見えますよね。このことが最も顕著に表れているのが、次のページなんです。
それは集福寺の最後の数行(※実は次のページ写真は掲示していないのですが)に、何と「下馬札」!が出て来ます。こんなもの
記念物なんですかねえ? で、「この下馬札は、東照神君家康公がこの寺を訪問され、住職の桂岩に面会された時に賜ったのだと
伝えられているが、もっと古い、成田氏がこの寺を建立した当時から、立ててある下馬札なのではないか?!」と書いています。
ちょっとびっくりです。何かその根拠でもあるのですかねえ? まあこれほどまでに、この編者は、成田氏についての執着が強い
らしいことが、これらの記事からも良く判るのですよ。何としても、成田氏の痕跡を見つけたい!という執念ですわ。(次回へ)



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