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新編武蔵風土記稿で奈良村を読むⅤ

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。本日は、雨模様の空です。

 

 コロナの感染が、再び拡大しているようです。まもなく5類に移行する予定だと言うのに、本当に大丈夫なのでしょうかね?

まだマスクを着用をした方が良いのかも知れませんね。政府のコロナ対策は、何故か裏目裏目に出ているように思えますね。

そのように見える原因は、政策決定の時期を失しているから、だと思われます。政府の政策意思決定が遅いから、なんです。

例えば欧米は、日本の半年以上も前から、コロナ規制を緩和していましたが、日本では、ようやくつい最近です。まあもちろん、

その決定が正しかったかどうか?は、また別問題なのですがね。しかし時期を失したために、欧米諸国とのズレを感じて来て、

更に再び状況が変化すると、日本の対応は、周回遅れの対応のように、感じられてしまう訳なのです。どうしてこのように、

海外と日本とでは、対応に差が出てしまうのでしょうか? 私この理由、日本人は表向きの納得を求めるからだ、と考えます。

つまり、コロナが収まって来たから、緩和しても良いだろう、と言う感覚ですね。これに対して欧米人は、経済が苦しいから、

感染が続く中でも規制を緩和した訳です。つまり、コロナ規制より経済実利(本音?)、と言う感覚です。本音と建て前、と

言い換えても良いかも知れません。日本人は、建て前であっても、みんなが納得する理由を付けて、物事に対応しようとする

のですよ。 今回は、そんな日本人特有の、表向きの理由説明と、裏の(本当の?)理由について、のお話しなんです。

 

 さて、新編武蔵風土記稿で読む中奈良村の部、2回目です。前回は、中奈良村の地誌全般と、奈良村四村の総鎮守神社である

熊野社(奈良神社)について見て来ましたが、昔の年中行事の管理者であった円蔵坊(後の長慶寺)には、色々問題もあった

ようですね。そのてんまつ記事(年行事社)に続いて今回は、熊野社・奈良神社の管理者でもある、今の長慶寺についてです。

ここでも前回同様、長慶の前の円蔵坊の顛末について、書かれています。何故二度も書くのか?、神社側と寺側だからですかね?

で、宗派は古来の真言宗、高野山浄心院の末寺で、摩尼山熊山院南之坊と号すのだそうです。真言宗でありながら、南之坊!、

とは少し奇異な感じがします。その理由として編者は、「この坊号は、隣村上奈良村の中に慶安以前(1649年以前)まで

東之坊、西之坊と号していた二寺(東光寺、妙音寺)に対しての、坊号なのだろう。」と述べています。宗派は変わっても、

寺号は変えなかったのですかねえ? で、慶安二年(1649年)八月二十四日に、寺領20石の朱印状をもらっているようです。

江戸幕府は徳川家光の時代です。「この寺は昔、修験道の寺であったが、前に説明したように、天正18年(1590年)円蔵坊

という僧(寺)が成田氏の烏山への移封に従い、下野国に去った後、長慶という僧が入って、現在の宗派の寺に改めたのだと、

寺伝では伝えられている。しかしこれには異説があって、隣の榛澤郡黒田村にある萬光寺の伝説では、この円蔵坊が法憲を犯した

ため寺を退き、そのあとの年行事職を元空という僧に命じられたのだと伝えられている。この時、聖護院(修験道宗派の総本山)

より出された慶長三年(1598年)9月26日の文書や、同じく十四年(1609年)5月17日の文書にも、宛名に奈良村円蔵坊とある

ことから、天正年間に長慶寺になったのではないことは、間違いないことだろう。しかし今の長慶寺が嫌がったため、現在の

ような伝承にしたのだろう。実際には次の元空が後に黒田村へ移り、建物そのまま長慶が譲り受けて、現在の宗派の寺にしたので

あろう。この長慶は、延宝4年(1676年)に死去したと伝えられているが、現在寺に収蔵されている文書類は、修験道宗派の時代

のもので、多分円蔵坊より、そのまま引き継いだものなのだろう。」と、少し省略しましたが、長慶寺の経緯が良く判ります。

この記事で重要な点は、修験道の寺院を、真言宗の僧が、居抜き物件で譲り受けた点にある、のではありません。大事なのは、

長慶が、成田氏が烏山に移ったので、宗派が変わったのだ、と説明している点なのです。この説明で、人々は納得しているのです。

まあ編者は、何かおかしいと感じて、調査結果を誇示している訳なんですが、我々読者にとっては、まあどうでも良い話しです。

※成田氏が烏山に移った時代(1590年代)と、僧長慶が生きた時代(江戸前期)が、合わないからですわね。

むしろ、天正18年の成田氏移封から、慶安二年の朱印状までの間は、この長慶寺=南之坊は、いったい誰がスポンサー(旦那)

だったのだろうか?と、考えてしまうのです。私は、成田氏がそのまま、円蔵坊の旦那であったのではないか?と、考えます。

でその後、1622年に成田氏が改易になって、援助が断絶してしまったため、やむを得ず?、長慶が円蔵坊を引き継いだのですよ。

当時の寺院とは、葬式のためだけの存在などではなく、村の拠点、寄り合い所であり、相談所、学校でもあったからです。

しかし円蔵坊は村民から親しまれていたため、寺号も変えず、仏像・記録文書もそのままで、長慶寺にしたのだろうと思います。

更にわざわざ円蔵坊を無私神として、年行事社に祀ってもいますしね。でも長慶はどうして、そんな円蔵坊を、宗派も違うのに、

引き継いだのでしょうかねえ? その理由、多分本当は、寺領20石の朱印状が得られるから!、なんですよ、、。(次回へ)