いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。本日は4月1日、エイプリルフールの日ですね。
4月1日と言えば日本では、満開の桜の中での入学式・入社式の日として定着しています。しかし東京では既に桜は
散り始めていますね。季節が伝統と合わなくなって来ているのです。近年は桜の開花時期がどんどん早まっているから、
ですわね。地球の温暖化が原因だと言われています。温暖化の影響の顕著な例としては、漁業不振の問題が挙げられます。
イカやサンマ、鮭も、日本の近海では獲れなくなって来ました。ちょいと昔は、乱獲の影響だろうと思われていました
が、禁漁を続けても魚影は戻って来ないので、地球温暖化が原因だろうと考えられて来ています。何故ならその一方で、
北海道では、ブリが大漁になって来ていますからねえ。日本の四季の伝統的風物詩が、変わろうとしているのです。
多くの人々がこの状況を憂慮して、何とかしなきゃと思っています。しかしその一方で、地球温暖化などフェイクだと
して、頑として認めない人々も存在します。 特にネットやSNSの中などでですね。まあどちらがウソなのか、判断は
歴史が証明してくれるのでしょうが、その前に、人類が恐竜のように、絶滅していなければ良いのですがねえ、、、
さて、新編武蔵風土記稿の上奈良村に戻り、今回は、頼尊墓についての記述です(右手写真の左端~左手写真の右側)
小さい字で書かれていますが、上奈良村の記述では、何故か頼尊墓が一番長文ですね。それでは現代文にしてみます。
「頼尊墓:自然石で、表側に開山 観音院頼尊、左の方に奈良三郎・藤原頼尊、右の方に建久六乙卯年(1195年)
現住鏡岸、裏側には助成主篠澤氏と彫ってある。往古の墓石は、欠け崩れしてしまったので、この墓石は、村民
の外記という者が、享保の頃(1716年~1736年)に再建したものだそうで、その頃(享保期)の言い伝えのままを
彫ったもので、往古の墓石の碑文を、そのまま写したものではないのだろう。また、語り継がれていることとして、
この地は奈良三郎が住んでいた場所で、奈良三郎は、この妙音寺の開山者である、と伝えられている。思うに、成田氏
系譜(系図)の中に、成田太夫助高の三男として奈良三郎高長が出ている。頼尊墓は、この人の墳墓であり、この
妙音寺の場所に住み、この土地の地名(奈良)によって奈良三郎高長を称したのだと、知るべきであろう。この奈良三郎
高長は、後に出家して頼尊と称し、この場所に住み、この妙音寺を開山したのであろう。また、同じ家系(成田氏)の
家臣分限帳には、(俸禄)四十五貫文 奈良下野と書かれている。この人も後年、この地に住んでいた奈良氏の子孫なの
だろう。この他、吾妻鏡の中では、承久の乱の場面で鎌倉幕府方に、奈良兵衛尉、奈良五郎、奈良左近将監、等の
名前が見えていて、殊に兵衛尉については、成田氏、別府氏と並んで書かれているので、恐らくは、この地の人物
なのであろう。」(頼尊墓の項終わり。) 以下、村内寺社:一乗坊、十王堂、地蔵堂三宇と列挙。
とまあ、長々と述べていますね。この編者、頼尊墓と言うよりは、奈良氏の歴史史料記録について、かなり頑張って
調べたものと思われます。まあ既に我々の知っている情報ばかりなんですけどね。だって、吾妻鏡の記録だけではなく、
頼尊墓と、まるで関係が無さそうな、戦国期成田氏長の家臣分限帳(奈良下野!)まで調べているんですからねえ。
編者の調査努力、良く頑張ったね、とは言えそうです。でも、まだ不十分ですわね。何故なら、奈良三郎頼尊の時代に
近いと思われる保元物語にも、奈良氏の名前は登場しているのに、拾えていないからです。吾妻鏡にしてもそうです
よ、承久の乱よりもっと以前の、源頼朝の奥州合戦や凱旋上洛の場面で、奈良氏一族の名前が何度も登場しているじゃあ
ありませんか! こちらを拾えていないのは、奈良氏の史料調査としては、やっぱりダメです。まだ不十分なのですよ。
拾えなかった理由は、多分、成田氏繋がりで調べて行ったから、だろうと思われます。つまり編者の奈良氏の発見は、
成田氏系譜(図)から、上之(成田)村、別府村、奈良村、玉井村を再発見したから、なのですよ。何故かと言うと、
編者自身が頼尊墓の記述の中で、「殊に兵衛尉については、成田氏、別府氏と並んで書かれているので、恐らくは、
この地の人物なのであろう。」と書いていることから、成田氏繋がりで調べていると推測出来るのです。奈良氏単独
で、史料を調べている訳ではないのですね。つまり編者は、成田氏系図全体について、非常な興味があるのですよ。
ですからその関心は、奈良村だけに留まらず、近隣のの上之村や別府村、玉井村にも広がっているハズなのです。
さて上奈良村の項に続いては、中奈良村の項に続きます。(以下次回へ)



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