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新編武蔵風土記稿で奈良村を読むⅡ

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。私の住む越谷市内では、桜が満開であります。

 

 前回は、マスク着用の状況について書かせて頂きましたが、コロナ自体の報道や話題は、完全に消えてしまったようです。

春になり、多くの人々の頭の中からは、既にコロナは消え去っているようです。まだ3月ですから、5類に移行した訳では

ないのですがね。国民の意識としては、既にコロナは終息している訳ですね。しかし現在でも、全国レベルでは、1日7000人

ぐらいの新規感染者はまだ出ていて、死亡者も出ている訳です。つまり、感染規模は縮小して来ているが、感染は続いている、

という状況です。でも、我々の意識の中からは、コロナブームは去ってしまいました。桜の開花状況の方が気になるのですね。

そこで一つの疑問です。もはや、コロナの新しい波(第八波とか?)は、来ないのでしょうかね? 更にウィルスが変異して、

より強力なコロナの感染爆発が、今後起きるような事態はないのでしょうかね? 実はこの点が明確になっていないのですよ。

政府分科会でも誰も、コロナの終息宣言は出していないのです。何となくうやむやなままに、人々が勝手に、コロナ終息!と、

思い込んでいるだけのように思えるんです。本当にもう、大丈夫なんでしょうかねえ?、、、

 

 さて、郷土史業界の教科書、新編武蔵風土記稿で、各奈良村の最初、上奈良村の記述部分について詳しく見ております。

掲示写真右側が1ページ目で、左写真の2ページ目へと続きます。ここまでが上奈良村の条なんですが、最初の書き出しの

部分から、この地は、昔、奈良氏一族が住んでいたと伝えられていると、妙音寺の条に書いておいた!、などと述べていて、

この編者は、よっぽど奈良氏について、ご執心であるようだと思われますね。上奈良村記述の本文部分については、前回

見て参りましたので、今回はいよいよ妙音寺についての記述部分です。(右側写真の左端部分)他の村内寺社については、

列挙しているだけなんですがねえ、奈良氏と関係がありそうな、東光寺、妙音寺、頼尊墓だけが、特別扱いなのですよ。

それだけ新編武蔵風土記稿の編者が、氏族奈良氏について興味津々であることが、逆に良く判るのです。さて妙音寺です。

まずは宗派から、新義真言宗(真言宗智山派)で、横見郡御所村息障院の末寺だそうで、開敷山観音院と号すのだそうです。

で、寺領15石は、慶安二年(1649年)八月二十四日に御朱印を賜ったのだそうです。(記録がきちんと残っていますね。)

開山した頼尊とは、奈良三郎であると伝えられているそうです。(遂に奈良三郎の名前も出ましたねえ。)本尊は大日如来で

脇立ちに如意輪観音と不動明王の像を置いているそうです。また、この観音像の方は、昔の本尊で、行基の作!と伝えられて

いるそうです。東光寺の伝承では、この寺、慶安期(1648年)以前は、西の坊と呼ばれていたそうだが、この寺(妙音寺)

には、この伝承は伝えられていない、※西の坊・東の坊 とのことです。そこで、別当東光寺の記述の部分に戻ってみますと

東光寺の伝承では、慶安期以前は、東光寺を東の坊、妙音寺を西の坊と呼んでいた、とされているのです。このあたりの

記述にも、編者側の興味・関心が感じられますね。単なる解説ではなく、読者に謎をかけている訳です。 まったくの仮説

ですが、私は、慶安期直前の、下野国烏山藩、成田氏の改易・断絶と、慶安二年の寺への朱印状あたりが、多分関係している

んじゃあないのかな?、と思っています。もしかすると、新編武蔵風土記稿の編者も、同じような考えがあったのかも?、、

さてその後、天神社、稲荷社、観音堂と、寺社の列挙が続き、その後突然、寺社ではなく「頼尊墓」の記述が出現します。

が、何か唐突ですね。頼尊墓とは、皆さんご存知、奈良三郎の墓ですね。この編者、よっぽど奈良氏や奈良三郎が、気になる

ように思えます。編者が一生懸命、奈良氏のことを調べ上げている状況が、推測出来るからなんです。頼尊墓なんて、当時の

上奈良村でも、再建墓ですし、名所でも有名でも何でもなかったハズなんですけどねえ。まあ現在もそうなんですが、、、

正直、どうして編者が、こんなに熱心に調べるのか?が、上奈良村の項だけを見ていると、良く判らないのでした。

 

で、頼尊墓の記述が、脚注の小字で、次のページ(左写真)まで延々と続きます。 文章が長くなりそうなので、次回へ。