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前回の枕では、コロナもウクライナ戦争も、気候変動も、個別の出来事ではなく、人類の衰退
という現象として、くくる事が出来るのではないか?、という考え方を述べさせて頂きました。
そこで、コロナ感染の拡大も、ウクライナ戦争の泥沼化も、気候の激変も、全て「人類の衰退」、
という文脈で捉えなおしてみると、ひとつに繋がるのですよ。人類のベクトル・潮流の問題です。
この観点で見てみると、コロナに対する各種感染対策も、ひとつの現象に対する単なる対症療法
であり、抜本的解決策ではない、と思えて来ます。ウクライナ戦争も同様で、今後戦争は世界中に
拡大して行き、お互いの憎しみの連鎖は、人類の最後の一人になるまで、殺戮が終わらない未来
になりつつあります。人類の世界平和を追求するための国連は、完全に機能不全に陥っています。
同様に地球の気候環境も激変し、各地で灼熱・砂漠化や台風・大洪水が頻発していますが、国連の
COPなどは、アピール開催されるだけで、何ら効果的な解決策は期待出来ない状況になっています。
多分、少子高齢化の問題も、人類の衰退という観点から、見ることが出来るハズです。繁栄の頂点に
ある中で、人類の衰退は、ひたひたと迫って来ているようです。さてここで問題です。果たして我々
人類は、この衰退の潮流を食い止めるべきかどうか?、なんです。食い止めることが出来るかどうか?
ではありませんよ。人類衰退の流れを食い止める試みは、実は自然の摂理に反している?、無駄な努力?
かも知れない、と言う考えからです。つまり人類が衰退に向かうのは必然であり、その流れを食い止める
努力は、まったくの無駄骨かも知れないのですよ。まあ、そのように見える、という話しなんですけどね。
さて、Wikipediaの三大編集方針についてのコメントです。一つ目の検証可能性=正確性については、
前回、データ情報量が少ない事象について、奈良氏の例示で述べさせて頂きました。検証可能性を担保
するためには、多くのデータ情報が必要である、ということです。とすれば、元々情報量の少ない奈良氏
については、Wikipediaに記事を投稿すべきではない?、という見解になりますよね。でも、奈良氏に
ついての投稿を求めていたのは、Wikipedia の方だったんですけどねえ、、、(※鹿角四頭記事より)
そして続いて、中立的観点という方針についてです。よく言われる例は、政治的中立的観点でしょうね。
例えば、ウクライナ戦争をWikipedia で調べてみると、本文記事の前に、山のような事前弁解コメントが
列挙されています。それだけ論争の多い項目なので、中立的観点を意識していることが良く判ります。
このような判りやすい例と比べて、奈良氏の記事はどうなのでしょうか?政治的観点は無さそうですね。
あるとすれば、学問的な中立的観点でしょうかね? しかし現在のところ、奈良氏についての学問的な
論争はありません。だって奈良氏という氏族の存在すら、一般的には知られていない状況だからです。
とすると、奈良氏の記事についての中立的観点とは、奈良氏が存在したのかどうか?、という観点
あたりでしょうかね? 奈良氏など存在しなかった!、という主張にも配慮して、奈良氏の記事を書く
べきなのでしょうかね? そんな主張、無いんですけどねえ。そもそも、Wikipediaに奈良氏の記事を
書く以上、奈良氏の存在を前提として書くのは、当たり前のことだと思われます。従って、奈良氏の
記事については、中立的観点という問題は、多分存在しないだろう、と思われるのです。
さてそれでは、独自研究は載せない、という方針については、果たしてどうなのでしょうか?(次回へ)

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