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Wikipediaへ、奈良氏を投稿してみました。Ⅵ

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。本日は、比較的暖かいですね。

 

 前回の枕では、コロナもウクライナ戦争も、気候変動も、個別の出来事ではなく、人類の衰退

という現象として、くくる事が出来るのではないか?、という考え方を述べさせて頂きました。

そこで、コロナ感染の拡大も、ウクライナ戦争の泥沼化も、気候の激変も、全て「人類の衰退」、

という文脈で捉えなおしてみると、ひとつに繋がるのですよ。人類のベクトル・潮流の問題です。

この観点で見てみると、コロナに対する各種感染対策も、ひとつの現象に対する単なる対症療法

であり、抜本的解決策ではない、と思えて来ます。ウクライナ戦争も同様で、今後戦争は世界中に

拡大して行き、お互いの憎しみの連鎖は、人類の最後の一人になるまで、殺戮が終わらない未来

になりつつあります。人類の世界平和を追求するための国連は、完全に機能不全に陥っています。

同様に地球の気候環境も激変し、各地で灼熱・砂漠化や台風・大洪水が頻発していますが、国連の

COPなどは、アピール開催されるだけで、何ら効果的な解決策は期待出来ない状況になっています。

多分、少子高齢化の問題も、人類の衰退という観点から、見ることが出来るハズです。繁栄の頂点に

ある中で、人類の衰退は、ひたひたと迫って来ているようです。さてここで問題です。果たして我々

人類は、この衰退の潮流を食い止めるべきかどうか?、なんです。食い止めることが出来るかどうか?

ではありませんよ。人類衰退の流れを食い止める試みは、実は自然の摂理に反している?、無駄な努力?

かも知れない、と言う考えからです。つまり人類が衰退に向かうのは必然であり、その流れを食い止める

努力は、まったくの無駄骨かも知れないのですよ。まあ、そのように見える、という話しなんですけどね。

 

 さて、Wikipediaの三大編集方針についてのコメントです。一つ目の検証可能性=正確性については、

前回、データ情報量が少ない事象について、奈良氏の例示で述べさせて頂きました。検証可能性を担保

するためには、多くのデータ情報が必要である、ということです。とすれば、元々情報量の少ない奈良氏

については、Wikipediaに記事を投稿すべきではない?、という見解になりますよね。でも、奈良氏に

ついての投稿を求めていたのは、Wikipedia の方だったんですけどねえ、、、(※鹿角四頭記事より)

 

 そして続いて、中立的観点という方針についてです。よく言われる例は、政治的中立的観点でしょうね。

例えば、ウクライナ戦争をWikipedia で調べてみると、本文記事の前に、山のような事前弁解コメントが

列挙されています。それだけ論争の多い項目なので、中立的観点を意識していることが良く判ります。

このような判りやすい例と比べて、奈良氏の記事はどうなのでしょうか?政治的観点は無さそうですね。

あるとすれば、学問的な中立的観点でしょうかね? しかし現在のところ、奈良氏についての学問的な

論争はありません。だって奈良氏という氏族の存在すら、一般的には知られていない状況だからです。

とすると、奈良氏の記事についての中立的観点とは、奈良氏が存在したのかどうか?、という観点

あたりでしょうかね? 奈良氏など存在しなかった!、という主張にも配慮して、奈良氏の記事を書く

べきなのでしょうかね? そんな主張、無いんですけどねえ。そもそも、Wikipediaに奈良氏の記事を

書く以上、奈良氏の存在を前提として書くのは、当たり前のことだと思われます。従って、奈良氏の

記事については、中立的観点という問題は、多分存在しないだろう、と思われるのです。

さてそれでは、独自研究は載せない、という方針については、果たしてどうなのでしょうか?(次回へ)