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日本にも、戦争の予感が、ひたひたと近づいて来ています。後戻り出来ない地点にまで、
あと少しだと思いますよ。理由は、ウクライナ戦争を見ていて、国や領土を守るためには、
敵と闘うこともやむなしと、多くの人々が思ったからです。ウクライナ国民に感情移入して
しまった訳です。このおかげで、国の防衛方針が、盾から鉾(反撃能力の保持)に、劇的に
変わりました。防衛予算だけが大幅増加です。私の青年期(40年前?)であれば、考えられ
ないことです。現在は誰も、正面切って反対出来ない雰囲気です。つまり、ウクライナ戦争
のおかげで、日本もヨーロッパ諸国と一緒に、国家存亡の危機的状況意識になったのです。
しかし意識はそうでも、現実はどうなんでしょうか? 現在日本は、ロシアから進攻を受けてはいません。中国・北朝鮮からも、進攻されてはいませんよね。もっとも、軍事的挑発は
頻繁に受けていますけどね。しかし相手の挑発に対して、軍事力増強で応えるというのは、
相手の土俵に乗ってしまっているだけで、どうにも頭の悪い対応に思えるのですよ。
むしろ、ロシアや中国、北朝鮮に対応するための非対称戦略が、実は今こそ求められている
と、考えるのですがねえ、、、同じ土俵で戦うのは、まさに相手の思うつぼだと思います。
つまり、挑発して来るロシアや中国や北朝鮮よりも、より賢く対応しなければいけない、と
言うことなんです。さてどうするか?
で、Wikipediaの奈良氏です。前回の最後は、あまり重要ではない事項が多量に含まれている、
との指摘でした。Wikipediaの監視員の考えを推察すると、多分、明治5年の弘前藩藩士名簿
(由緒書)の記載部分ではないか?、と思われますね。唐突にこの話しが、出て来ているように
見えるからです。多分、まあ必要のない話しなのではないか?、と思われた訳でしょうね?
しかし実は、この話しには伏線がありまして、九戸政実の乱の後、鹿角奈良氏の一族は、秋田・津軽に
逃げて生き延びた、という記述があります。引用は鹿角由来記等ですね。で、正しい鹿角由来記の文章
では、逃げた大湯四郎左衛門昌次の子兄弟が、津軽氏に仕官・奉公した、という記述になっている
のです。つまり、戦国末期に津軽氏に仕官・奉公したとされる大湯氏(奈良氏)の子孫が、明治期
の弘前藩にも、生き残っていた可能性がある、というエピソードにつながるのですが、鹿角由来記
の文章は、敢えて書きませんでした。その後の奈良氏の研究者によって、津軽藩士の奈良氏が、鹿角
から逃れて来たことを示す別史料が、将来発見されることを期待するからです。(奈良家文書とか?)
まあそれまでの間は、弘前藩士の部分は、あまり重要ではない事項である、とされるのでしょうね。
で、掲示写真は、奈良氏初代とされる奈良三郎の墓(熊谷市指定記念物)の写真なんですが、この
写真の件でも、実はちょっとしたトラブルがあったのですよ。(次回へ)

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