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Wikipediaに奈良氏を追加しようか、

 新年明けましておめでとうございます。また、このブログをご覧頂き、誠に有難う

ございます。

 

 新年ですから、今年は新しいテーマで、奈良姓を追求してみたいと思います。そこで

考えたのが、Web百科事典であるWikipediaへの投稿なのです。Wikipediaには、既に多く

の氏族名が掲載されているのですが、何故か奈良氏は、存在しないのですね。奈良姓の一人

としては、やはりこれはまずいと思う訳です。そこで、誰も書かないのであれば、自分が

書いてみようか?と、思った次第なのです。まあ言わば、このブログの総まとめですかね?

以下は、Wikipediaへの投稿の草稿案になりますので、ご確認下さいませ。 

 

 

<奈良氏>

 奈良氏は、武蔵の国出自の、東国武士団氏族のひとつである。

 

<出自>

 成田氏系図(注1)によると奈良氏は、成田氏の初代、成田太夫助隆の三男が、奈良の地に領地を

得て、奈良三郎高長を名乗ったことに始まるとされる。ちなみに、次男は別府の地を得て別府氏を、

四男は玉井の地を得て玉井氏を名乗っている記述があることから、奈良の地とは、武蔵国幡羅郡の

奈良郷(現埼玉県熊谷市奈良地区)に比定される。熊谷市上奈良の妙音寺(熊谷市上奈良702)には、

後代の建立ではあるが、奈良氏初代とされる「奈良三郎の墓」(熊谷市指定記念物)が現存している。

時代は平安末期、東国武士団の勃興期である。

奈良氏についての記録では、1156年の保元の乱を描いた保元物語(注2)で、他の成田氏の一族らと

ともに、源義朝の家臣としての活動が見られる。またその後の鎌倉期には、吾妻鏡の中で、源頼朝の

奥州遠征勝利の凱旋上洛および再上洛時の記述(注3)、更にその後の承久の乱での宇治川合戦後の

記述(注4)などに、鎌倉御家人として、奈良氏の一族の名前が散見される。

 

<歴史>

 鎌倉期、源頼朝の奥州遠征に従軍し(注3)、その恩賞として、鹿角由来記(注5)によれば、成田氏、

安保氏、秋元氏と共に奈良氏は、陸奥国の鹿角郡に領地を得て、鹿角四頭として入植した。鹿角奈良氏

一族の惣領家は、大湯の地(現秋田県鹿角市十和田大湯)を領地として、大湯氏を名乗った。

 

 承久の乱後に、三河国細川郷(現愛知県岡崎市)に領地を得た細川氏に従って入植した奈良氏の一族は、

南北朝期に入ると、細川氏の台頭とともに、細川家の重臣として、その名前が歴史に見えるようになる。

細川頼之の代には、奈良太郎が、讃岐国鵜足津(現香川県宇多津町)に領地(聖通寺城)を得ている。(注6)

更に細川頼元の代には、奈良氏は摂津国守護代として奈良五郎左衛門入道俊阿の名前が見え、摂津国の

垂水荘(現大阪府豊中市・吹田市の一部)にも領地を得ている。(注7)

その後の応仁期、細川勝元の代には奈良元安が現れ、細川家四天王のひとりと呼ばれ、讃岐鵜足津郡と、

那珂郡に領地を保持している(注8、9)。しかし戦国期に入ると、細川氏の衰退とともに、讃岐の奈良氏も

徐々に衰え、1580年頃に長曾我部元親の讃岐進攻によって、遂に滅ぼされてしまうが、摂津垂水荘に逃れて

いた子孫は、豊臣秀吉の四国統一後に、讃岐へ帰還した、と伝えられる。(注8、9)

 

 また、戦国期まで命脈を保って来た奥州鹿角の奈良氏一族(大湯氏等)は、1591年の九戸政実の乱に於いて、

九戸方として参戦したが、豊臣秀吉の奥州仕置軍に敗れ、大湯四郎左衛門昌次は、首謀者一味として栗原郡三迫

の地で処刑された。(注5、10)

この時、豊臣方(南部氏側)の仕置を恐れた鹿角奈良氏の一族子孫は、鹿角の地を離れ、津軽や秋田に逃れて、

生き延びたとされる。(注5、11)

明治5年の廃藩置県時の弘前藩由緒書きには、16名もの奈良姓藩士の名前が見える。(注12)

 

 誕生地である武蔵国に残った奈良氏一族については、室町期には、上杉家家臣である成田氏の家臣として、

永正7年(1510年)の権現山城の戦いに参陣した、奈良六郎の名前が見える。(注13)

しかしその後の成田記によれば、永正14年(1517年)、武蔵国の奈良氏惣領家は、同族である成田氏、別府氏、

玉井氏によって攻められ、滅ぼされたとされる(注14)。

が、その後の戦国期、成田氏長時代の家臣団名簿にも、奈良氏の一族とみられる名前(奈良下野)は見えている。

(注15)

 

<奈良姓の人口分布との関わり>

現在の奈良姓の人口分布は、全国平均比率に比べて、青森県、秋田県、埼玉県加須市・久喜市、大阪府豊中市、

香川県丸亀市・善通寺市などで、分布比率が高い。(注16、17)

これらの奈良姓の地域分布傾向は、武家奈良氏についての上記歴史動向が、反映されている可能性が高い。

 

 

注1、成田系図:「群書系図部集」第五巻(続群書類従完成会編 1985.4)に収録。

   ※塙保己一の「続群書類従」としては、巻第百六十二

注2、保元物語上巻、「主上三条殿に行幸の事 付官軍勢揃えの事」の段、および「白川殿攻め落とす事」

   の段に、成田太郎、別府次郎らの名前とともに、奈良三郎の記述。

注3、吾妻鏡 建久元年(1190年)11月7日の上洛記録で、成田七郎、別府太郎らの名前とともに、奈良五郎、

   奈良彌五郎、の記述。

    吾妻鏡 建久六年(1195年)3月10日の再上洛記録で、奈良五郎の記述。

注4、吾妻鏡 承久三年(1221年)6月18日の記録で、奈良五郎、奈良兵衛尉、の記述。

注5、鹿角由来記「鹿角郡四天侍之事」:南部叢書(南部叢書刊行会編 1927)に収録。類似書で、

   「鹿角由来集」、「鹿角郡旧記」(奥南落穂集)、「鹿角縁起」がある。

注6、讃州細川記「細川諸士の事」香川景助誌 天和三年(1683年):香川叢書(香川県編 1941)巻二に収録。

注7、東寺百合文書「摂津国守護細川頼元書下案」 永和2年(1376年)3月17日付:京都府立京都学・暦彩館蔵

    東寺百合文書「摂津国守護代奈良俊阿書状案」 永和2年(1376年)9月11日付:京都府立京都学・暦彩館蔵

注8、南海通記 巻之五「細川定四臣記」 香西成資著 寛文三年(1663年)に、奈良太郎左衛門尉元安の記述。

注9、西讃譜誌 巻之十「細川氏被官下」 丸亀藩編に、奈良氏の記述。

注10、浅野長政等書状(盛岡歴史文化館蔵)、南部根元記「九戸記」、奥州南部九戸軍記(千葉常左衛門著)、

注11、鹿角由来記「鹿角郡四十二館に侍四十二人居候事」大湯氏の条、他 奧南落穂集等、

注12、津軽家文書「由緒書」明治5年 :弘前市立図書館

注13、成田記「上田蔵人神奈川籠城井成田家戦功の事」 小沼小十郎著 昭和15年:国立国会図書館

注14、稿本「郷土忍の歴史」「成田氏時代上編」 森尾津一著:Web行田郷土史研究会2012編

注15、成田家分限帳 成田氏長著 :国立国会図書館

注16、Web名字由来ネット:奈良姓

注17、Web日本姓氏語源辞典:奈良姓