いつもこのブログをご覧いただき、誠にありがとうございます。西日本にお住まいの奈良姓の皆さんの歴史について、色々書かせて頂いております。と、その前に枕を、
日本人の多数派である非正規労働者層の世論とは、ネトウヨの主張に重なるのだと、
指摘させて頂きました。激減した中間層の代弁者である大手マスコミは、既にかつての
影響力を失いつつあります。誰も読まない新聞の購読層は、スマホのポータルサイトに
移行し、誰も見ないテレビ番組の視聴者層は、YouTubeへと移行しています。
広告収入の激減は、大手マスコミに死をもたらします。しかし一方、今のネット社会の
内部では、混沌・無秩序の中、激しい炎上と分断、対立が、深く浸行しています。
ネット上では、むき出しの感情同士が激突し、エスカレーション(炎上)しています。
このネット上での激しい炎上や分断は、現実社会をも覆っていて、ぎすぎすした敵対的な
感情対立が世の中に渦巻いています。現在の米国社会などが、その典型です。社会混乱ですね。
民主主義の危機が訪れます。強い専制主義の体制の方が、弱弱しい民主主義より優れている、
という中国等の主張が、真実味を帯びて来ます。もしかすると、民主主義は、敗北するかも
知れませんね。強い専制主義の方が「楽」だと考える人々が、着実に増えて来ているからです。
もし彼らが多数派になったら、あるいは、現在の多数派である非正規労働者層が、専制主義
の方が「楽」で安定的だと考えたならば、日本版のトランプが、遂に出現するのでしょうかね?
しかし私は、そうはならないと思いますよ。むき出しの激情って、実は長続きしないんですよ。
絶えず心変わりするんです。絶えず変化する社会では、民主主義が生き残らざるを得ないのですよ。
という書き出しの後で、誠に恐縮なのですが、西日本の奈良姓の人々の歴史について、であります。
前回までは、管領細川家の家臣であった、西讃岐に在住の、奈良姓のご先祖の方々の歴史が中心でしたが、
この奈良姓のご先祖達は、摂津垂水荘の奈良姓の人々とも同族で、長年つながりがあった、という事実が
明らかになったのでした。摂津国にあった奈良氏の領地、垂水荘は、元々は京都東寺の荘園であったため、
奈良氏の存在証明になる、垂水荘に関する奈良氏の関連文書も、幸運にも東寺百合文書に保存されていた
のですね。垂水荘とは、現在の地名で言えば、地下鉄御堂筋線江坂駅の西側辺りから、豊中市小曾根あたり
にかけてでしょうか?、近辺には、比較的多くの奈良姓の皆さんが、現在でもお住まいのようです。
これらの歴史により、西讃岐と大阪にお住いの奈良姓の皆さんの、三河細川京兆家家臣から出発した歴史に
ついては、こうして何とか解明されたのでした。
で今回は、関西における奈良姓のもうひとつの集積地?、淡路国(淡路島)南あわじ市についてなのです。
西日本の奈良姓で、西讃岐地方以外では、何故か兵庫県南あわじ市の中条広田地区が、かなり突出している
のです。どうしてなのでしょうか? もしかするとこの地にも、奈良氏の領地があったのでしょうかね?
奈良氏が領地を得る可能性があるとすれば、やはり主君が細川頼之・頼元の時代しかありません。歴史的には、
貞治元年(1362年)に細川頼之軍は、従兄の前管領、細川清氏軍を、讃岐国宇多津近郊の白峯合戦で破り、
その戦功により、古参家臣の奈良太郎は宇多津に、香川氏は多度津に、領地を得ています。(讃州細川記)
でこの時、細川清氏軍として一緒に、細川頼之軍と戦ったのが、頼之の従兄で淡路守護だった細川氏春でした。
つまり細川氏春は敗れた訳ですね。本来なら、淡路守護は解任されるハズなんですが、何故かそのままだった
ようです。私は氏春敗北後に、讃岐と同様に淡路についても、頼之側の家臣が送り込まれたのではないか?、
と考えるのです。このようにして奈良氏一族は、南あわじ市中条広田周辺にも領地を得たのだと考えますと、
現在の状況が理解出来るのです。もしかすると淡路の奈良氏入植は、細川氏春一族の監視が目的だったの
かも知れません。何故なら敗北しながら簡単に、淡路守護に再任されるなどとは、考えられないからです。
まあもちろん、初代淡路守護である細川師氏(頼之の叔父)が、淡路赴任に際して、故郷の三河細川郷から、
奈良氏一族を一緒に連れて来た、と考えるのが普通かも知れません。いずれにせよ、淡路島在住の奈良姓の
皆さんのルーツが、細川氏の隆盛と連動していることは、間違いがないのです。つまり、淡路初代細川師氏、
二代細川氏春ともに、管領細川頼之と同様に、三河細川郷の生まれ育ちである点が、重要なのです。つまり、
彼らの生まれ故郷の傍らには、いつも同郷奈良氏が一緒にいたのですよ。だから領国赴任時にも、一緒に入植
したのです。ですから、淡路の奈良氏は、淡路守護となった細川師氏・氏春親子と一緒に淡路に来たので、
奈良氏は、淡路に定着することが出来たのだ、と言えるのです。
さて今回の写真は、南あわじ市にある、「養宣館(やぎやかた)」跡の石碑です。養宣館とは、代々の
淡路守護細川家の居城(守護所)でした。守護所でありましたから、淡路国の首都でもあった訳です。
で、この養宣館のすぐ近所に、淡路奈良氏の領地?、中条広田があります。このことからも、淡路奈良氏は、
淡路細川家での重臣であったであろうことが、確かに解るのです。
最後に西日本ではあと、大分市の津守地区に、奈良姓の若干の集積地(100人ほど)が存在しています。
しかし現在のところ、東国武士団奈良氏との関係は、残念ながら判明しておりません。
あと、太田亮の「姓氏家系大辞典」では、九州地区の奈良姓としては、鮫島氏系として、薩摩の奈良氏を
紹介していますが、名前が見つかったので記載した、ぐらいの扱いですので、残念ながら良く判りません。
(以上この項 了)

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