いつもこのブログをご覧いただき、誠にありがとうございます。現在は、
室町末期の讃岐奈良氏の経緯について、色々書かせて頂いております。
その前に、いつもの枕を少しばかり。
前回は、ネトウヨの声とは、普通の日本人の飾らない、裸の声である、
というような見解を書かせて頂きました。この見解にはもちろん、賛否
両論があると思います。でも現在の日本では多分、多数派の声なんです。
しかしこのネトウヨの声、いままでマスコミを通じて広く認識されて来た
国民の声とは、かなり違っていますよね? 極端な意見になって来ている
んです。前回も申し上げたように、理屈ではなく、感情で発信している
からですね。人々は、どうしてこのように変わって来たのでしょうか?
それは、コミュニケーション手段が変わったから、なんです。昔は、マス
コミも含めて、対面でのコミュニケーションでした。お互い、相手の顔を
知った上でのコミュニケーションだったのです。しかし現在は、スマホを
通じてのネットコミュニケーションが中心になりました。つまり、お互い
顔が見えない匿名なんですね。だから遠慮なく自由に発言出来るんですよ。
(※このコミュニケーション方法が、良いか悪いかは、また別問題ですよ。)
そうなると、それぞれの主張はおのずと、むき出しの感情になってしまうのですよ。
だから、みんな普通の市民の感情の発露が、ネトウヨの主張になってしまうんです。
何故皆そうするのか? 裸の感情の発露の方が、正直で気持ちいいから、ですよ!
で大事なのは、感情なので、コロコロと変わりうる
さて前回に続いて、讃岐奈良氏のその後です。今回の掲示写真は、江戸時代末期に丸亀藩によって
編纂された、「西讃譜誌」の奈良氏に関する部分です。「西讃譜誌」は、丸亀藩ですから、西讃岐地方の
歴史・地誌ですね。この中で、奈良元安以降の讃岐奈良氏について、詳しく描かれているのですがね、、、
応仁の頃=細川勝元の頃、細川家四天王として、奈良太郎左衛門元安が現れたのだそうです。これって、
前回の「南海通記」の記述そのままですね。つまり丸亀藩の編者は、南海通記の奈良氏しか知らないのですね。
讃州細川記を読んでいないのですかね? あるいは、南海通記の作者と、同じ間違いを犯したのかも知れません。
しかしこの「西讃譜誌」の記述によって、讃岐奈良氏についての経歴は、決定的に確定してしまったのでした。
まあ讃岐奈良氏については、戦国中期(1582年)に長曾我部氏により、既に滅ぼされてしまっていますので、
奈良氏の出自や細川頼之時代の奈良氏については、史料も無く、あまりよく知られていないのですね。
もし細川頼之時代の摂津守護代、奈良俊阿(五郎左衛門入道)の実在が判っていたら、西讃譜誌の奈良氏に
ついての記述は、讃州細川記の正しさが証明されて、かなり違ったものになっていたハズだと思いますね。
さて讃岐奈良氏のその後は?、というと、再び西讃譜誌です。細川氏四天王であった奈良元安の時代は、
鵜足(宇多津)に聖通寺城を築城したりで、順調だったようですが、その子奈良備前守元信の代になり
ますと、勢いに陰りが見えて来ます。相変わらず畿内の領地(摂津垂水荘)は保持していたようですが、
元信自身は京都で細川管領家の執事を務めていたため、宇多津には、元信の子、太郎兵衛奈良元政?を、
据えていましたが、不安だったのでしょう、後藤左衛門佐、物集大蔵太夫、進士隼人佐らを、後見家臣に
置いていました。(※1490年代頃か??) しかし国人領主間の争いで、徐々に領地を失って行きました。
そして遂には、津郷二村、川津など数村を残すのみとなってしまいました。 その後、四国の覇者になった
長曾我部元親は、天正10年(1582年)、讃岐にも攻め込み、奈良元政?と、幼少であった太郎左衛門は、
遂に滅ぼされてしまったのでした。讃岐奈良氏の滅亡ですね、西讃譜誌の文章をご確認下さい。
でも私、今回もまた、おかしいと思うのですよ。讃岐奈良氏を滅ぼしたのは長曾我部元親ですから、1582年は
正しいのでしょう。そうすると、滅ぼされた奈良元信の子である奈良元政って、一体何歳だったのでしょう?
だって、奈良元信は、奈良元安の子ですから、1400年代末頃の人物です。主君は多分、細川勝元の子である
管領細川政元なのでしょうね。で、その奈良元信の子、奈良元政が、ほぼ100年後の天正10年に、幼い子供の
太郎左衛門とともに滅ぼされるなどとは、年代的に考えられないのですよ。また、何かが間違っているんです。
実はそのヒントになる部分が、西讃譜誌の文章の中にあります。「元信の子、太郎兵衛元政という、」の文の次に、
小さい字で、治乱記(房総治乱記?)では勝政とあり、という脚注が付いているのです。つまり丸亀藩の編者も、
さすがにこれは年代的におかしい、と思っているのですよ。これ、一体どのように考えれば良いのでしょうか?
私は奈良備前守元信の子の名前は、奈良元政ではなく、奈良勝政が正しいと考えます。先代主君の細川勝元と、
当代主君の細川政元より、一文字ずつ貰いて、勝政になったのですよ。ね、リアリティありますでしょ?
とすると、奈良太郎兵衛元政とその子太郎左衛門って誰?、になる訳ですが、多分、奈良勝政の子孫であろうと、
思いますね。ですから奈良勝政の子孫は、その後も領地防衛のため、宇多津の地に留まっていたのですよ。
そして1582年に長曾我部元親に滅ばされたのは、他の記録からも、奈良元政親子に間違いないのだろうと思います。
何故なら、1560~70年代は、主君細川家は、細川晴元~昭元の時代ですから、奈良元政の偏諱を賜ることは当然と
考えられるからです。更に細川晴元の代に、細川氏の讃岐守護職は奪われており、讃岐奈良氏の後ろ盾がなくなった
ことも、当時の状況を反映していると思われます。ですから、西讃譜誌の記述混乱の原因は、編者の方が、讃岐の
奈良氏の系譜がよく解らないので、知られた史料だけから年代を超えて、奈良氏を繋げてしまったから、なのでした。
まあ領地を失い続けた時代の、不名誉な領主名なんて、あまり残っていませんわね。またこの頃の主君細川家の方も、
同様に混乱続きでしたからねえ。よく判らないのですよ。
しかし敗北した奈良元政は、宇多津を脱出する時、子供の太郎左衛門を、上方の領地に避難させていたのですね。
この上方の領地については、皆さんもう、良く分かりますよね。そうです、摂津の垂水荘ですね。繋がりました。
そして秀吉の四国平定後、奈良太郎左衛門は、再び宇多津に戻り、津郷村に隠遁したのだ、とのことですね。多分、
農民として、宇多津の地に根付いたのでしょう。ですから現在でも、西讃岐地方には、奈良太郎左衛門の子孫である
奈良姓の人々が、数多く暮らしていらっしゃる、と言う訳なのです。(次回へ)

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