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西日本在住の奈良姓の人々の由来について、Ⅵ

 いつもこのブログをご覧いただき、誠にありがとうございます。現在は、

室町末期の讃岐奈良氏の経緯について、色々書かせて頂いております。

その前に、いつもの枕を少しばかり。

 

 前回は、ネトウヨの声とは、普通の日本人の飾らない、裸の声である、

というような見解を書かせて頂きました。この見解にはもちろん、賛否

両論があると思います。でも現在の日本では多分、多数派の声なんです。

しかしこのネトウヨの声、いままでマスコミを通じて広く認識されて来た

国民の声とは、かなり違っていますよね? 極端な意見になって来ている

んです。前回も申し上げたように、理屈ではなく、感情で発信している

からですね。人々は、どうしてこのように変わって来たのでしょうか?

それは、コミュニケーション手段が変わったから、なんです。昔は、マス

コミも含めて、対面でのコミュニケーションでした。お互い、相手の顔を

知った上でのコミュニケーションだったのです。しかし現在は、スマホを

通じてのネットコミュニケーションが中心になりました。つまり、お互い

顔が見えない匿名なんですね。だから遠慮なく自由に発言出来るんですよ。

(※このコミュニケーション方法が、良いか悪いかは、また別問題ですよ。)

そうなると、それぞれの主張はおのずと、むき出しの感情になってしまうのですよ。

だから、みんな普通の市民の感情の発露が、ネトウヨの主張になってしまうんです。

何故皆そうするのか? 裸の感情の発露の方が、正直で気持ちいいから、ですよ!

で大事なのは、感情なので、コロコロと変わりうる

 

 さて前回に続いて、讃岐奈良氏のその後です。今回の掲示写真は、江戸時代末期に丸亀藩によって

編纂された、「西讃譜誌」の奈良氏に関する部分です。「西讃譜誌」は、丸亀藩ですから、西讃岐地方の

歴史・地誌ですね。この中で、奈良元安以降の讃岐奈良氏について、詳しく描かれているのですがね、、、

応仁の頃=細川勝元の頃、細川家四天王として、奈良太郎左衛門元安が現れたのだそうです。これって、

前回の「南海通記」の記述そのままですね。つまり丸亀藩の編者は、南海通記の奈良氏しか知らないのですね。

讃州細川記を読んでいないのですかね? あるいは、南海通記の作者と、同じ間違いを犯したのかも知れません。

しかしこの「西讃譜誌」の記述によって、讃岐奈良氏についての経歴は、決定的に確定してしまったのでした。

まあ讃岐奈良氏については、戦国中期(1582年)に長曾我部氏により、既に滅ぼされてしまっていますので、

奈良氏の出自や細川頼之時代の奈良氏については、史料も無く、あまりよく知られていないのですね。

もし細川頼之時代の摂津守護代、奈良俊阿(五郎左衛門入道)の実在が判っていたら、西讃譜誌の奈良氏に

ついての記述は、讃州細川記の正しさが証明されて、かなり違ったものになっていたハズだと思いますね。

 

 さて讃岐奈良氏のその後は?、というと、再び西讃譜誌です。細川氏四天王であった奈良元安の時代は、

鵜足(宇多津)に聖通寺城を築城したりで、順調だったようですが、その子奈良備前守元信の代になり

ますと、勢いに陰りが見えて来ます。相変わらず畿内の領地(摂津垂水荘)は保持していたようですが、

元信自身は京都で細川管領家の執事を務めていたため、宇多津には、元信の子、太郎兵衛奈良元政?を、

据えていましたが、不安だったのでしょう、後藤左衛門佐、物集大蔵太夫、進士隼人佐らを、後見家臣に

置いていました。(※1490年代頃か??) しかし国人領主間の争いで、徐々に領地を失って行きました。

そして遂には、津郷二村、川津など数村を残すのみとなってしまいました。 その後、四国の覇者になった

長曾我部元親は、天正10年(1582年)、讃岐にも攻め込み、奈良元政?と、幼少であった太郎左衛門は、

遂に滅ぼされてしまったのでした。讃岐奈良氏の滅亡ですね、西讃譜誌の文章をご確認下さい。

 

 でも私、今回もまた、おかしいと思うのですよ。讃岐奈良氏を滅ぼしたのは長曾我部元親ですから、1582年は

正しいのでしょう。そうすると、滅ぼされた奈良元信の子である奈良元政って、一体何歳だったのでしょう?

だって、奈良元信は、奈良元安の子ですから、1400年代末頃の人物です。主君は多分、細川勝元の子である

管領細川政元なのでしょうね。で、その奈良元信の子、奈良元政が、ほぼ100年後の天正10年に、幼い子供の

太郎左衛門とともに滅ぼされるなどとは、年代的に考えられないのですよ。また、何かが間違っているんです。

実はそのヒントになる部分が、西讃譜誌の文章の中にあります。「元信の子、太郎兵衛元政という、」の文の次に、

小さい字で、治乱記(房総治乱記?)では勝政とあり、という脚注が付いているのです。つまり丸亀藩の編者も、

さすがにこれは年代的におかしい、と思っているのですよ。これ、一体どのように考えれば良いのでしょうか?

 私は奈良備前守元信の子の名前は、奈良元政ではなく、奈良勝政が正しいと考えます。先代主君の細川勝元と、

当代主君の細川政元より、一文字ずつ貰いて、勝政になったのですよ。ね、リアリティありますでしょ?

とすると、奈良太郎兵衛元政とその子太郎左衛門って誰?、になる訳ですが、多分、奈良勝政の子孫であろうと、

思いますね。ですから奈良勝政の子孫は、その後も領地防衛のため、宇多津の地に留まっていたのですよ。

そして1582年に長曾我部元親に滅ばされたのは、他の記録からも、奈良元政親子に間違いないのだろうと思います。

何故なら、1560~70年代は、主君細川家は、細川晴元~昭元の時代ですから、奈良元政の偏諱を賜ることは当然と

考えられるからです。更に細川晴元の代に、細川氏の讃岐守護職は奪われており、讃岐奈良氏の後ろ盾がなくなった

ことも、当時の状況を反映していると思われます。ですから、西讃譜誌の記述混乱の原因は、編者の方が、讃岐の

奈良氏の系譜がよく解らないので、知られた史料だけから年代を超えて、奈良氏を繋げてしまったから、なのでした。

まあ領地を失い続けた時代の、不名誉な領主名なんて、あまり残っていませんわね。またこの頃の主君細川家の方も、

同様に混乱続きでしたからねえ。よく判らないのですよ。

 しかし敗北した奈良元政は、宇多津を脱出する時、子供の太郎左衛門を、上方の領地に避難させていたのですね。

この上方の領地については、皆さんもう、良く分かりますよね。そうです、摂津の垂水荘ですね。繋がりました。

そして秀吉の四国平定後、奈良太郎左衛門は、再び宇多津に戻り、津郷村に隠遁したのだ、とのことですね。多分、

農民として、宇多津の地に根付いたのでしょう。ですから現在でも、西讃岐地方には、奈良太郎左衛門の子孫である

奈良姓の人々が、数多く暮らしていらっしゃる、と言う訳なのです。(次回へ)