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西日本在住の奈良姓の人々の由来について、Ⅴ

 いつもこのブログをご覧いただき、誠にありがとうございます。現在は、西日本エリア(特に大阪と香川県あたり)にお住まいの

奈良姓の皆さんの由来について、色々書かせて頂いております。が、その前に、いつもの前段部を少しばかり、

 

 現在、「ネトウヨ」と呼ばれる人々の動向が注目されています。ネット右翼と翻訳されているようですが、ちょっと違うように

思われます。スマホとSNSの普及によって、勢力を拡大しているように見えるのですが、実際はスマホ・SNS活用者で意見を言う

人総て言わばネトウヨだと言えます。極端な意見ですかね? レッテル貼りを止めて、冷静に状況を見ると良く分かりますよ。

右翼も左翼もないのですよ。ネトウヨとは、理屈ではなく感情で発信している人々のことなのです。だから普通の人々が、ネット上

で発言すれば、全員ネトウヨになるのですよ。何故なら、人々のむき出しの感情が、ネット上で噴出しているだけのことだからです。

つまり、取り繕った、お化粧をした大手マスコミの主張から、規制や制約を取り払ったネット発言は、逆にネトウヨの主張になる、

と言うことなんです。ネトウヨの主張とは、特殊意見などではなく、本当はスマホ多数派の、普通の、正直な心の声なのですよ。

単に表現法が過激・極端(稚拙)なだけなんです。だからネトウヨ勢力が、世界中で増大しているように見えるだけのことなのです。

ですから私は、ネトウヨとは、理屈ではなく、感情で一致している、普通の人々のことだと理解します。もし非正規労働者層が、

日本国民の多数派になったのだとしたら、理屈は別として、多数派の感情としては、ネトウヨの主張になる訳なのですよ。

そしてこの状況を正しく理解していないので、大手マスコミは、真の世論の動向を、見誤ってしまう訳なのです。 

 

 さて、右側の写真は「南海通記」で、江戸前期の讃岐出身の武士、香西成資によって書かれた、四国(南海道)の通史です。

著者は、細川氏四天王と呼ばれた、香西氏の末裔ですね。で、写真の南海通記、細川氏四天王についての記述部分ですが、

「享徳元年(1452年)から幕府管領職にある細川勝元は1465年、香川元明、香西元資、安冨盛長、奈良太郎左衛門尉元安、

の4人を、家臣の統領とした。それで世間の人々は、この4人を、細川家の四天王と呼んだ。」という内容ですわね。

更に、それぞれの家臣の讃岐での領地について書いていますが、奈良元安については「近頃、那珂・鵜足(宇多津)の二郡を

領地として賜った。」のだそうです。この記述のおかげで、多くの讃岐奈良氏についての解説では、奈良太郎元安の時代に、

初めて讃岐に領地を得たのだろう?と、考えられて来ました。細川勝元は、細川頼之から5代後の、室町幕府管領ですね。

1430~1473年の生涯ですから、前回の、細川頼之の時代から、約100年後の細川京兆家当主に当たります。この細川勝元、

世間的には、応仁の乱(1467~1477年)の東軍の総大将として有名です。でこの南海通記では1465年、奈良元安が初めて?、

鵜足(宇多津)・那珂の2郡を拝領した?、と書かれているんです。でも私はこれ、実は間違いだ、と考えております。

前回も申し上げましたが、鵜足(宇多津)の地は、細川頼之により、奈良氏がその管理権を得ているんです。解説書によく

書かれている、細川勝元が、白峯合戦(100年前)の戦功で?、奈良元安に対し宇多津の領地を与えたなどとは、考えられない

からです。私は、細川勝元が、鵜足(宇多津)・那珂の領地を追認しただけだ、と考えています。(ただし、もしかすると、

那珂の領地は、この時新たに加増されたのかも?、知れませんけれど、、、)

何故なら細川勝元当時の、讃岐の国人衆による領国支配は、大きく東讃岐と西讃岐勢力に分かれていて、その中間点である

鵜足(宇多津)の地は歴史もあり、絶えず両勢力間の係争の地だったからなのです。その意味で細川勝元は、鵜足(宇多津)の

領地を、古くからの家臣である奈良氏の子孫、奈良太郎左衛門尉元安に、追認(安堵)したのだろうと、思われる訳なのです。

 

 ところでこの南海通記では、左隣りページ、奈良氏ら細川四天王の子供達の所領は、畿内にもあると、書いてありますね。

奈良元安の場合、これ多分、摂津のことですね。つまり、前々回の摂津守護代、奈良俊阿の時代から約100年間、奈良氏には、

摂津にも所領が存続したことを示しています。これは奈良氏が連綿と、細川京兆家の重臣を続けて来ていることも表している

のです。そして奈良元安の時代に、讃岐奈良氏は細川家四天王として、まあその頂点を極めたのかも知れませんけどね。

しかし讃岐奈良氏が、細川勝元・奈良元安の時代に初めて、宇多津の領地を得た、などという記述は、おかしいのです。

この南海通記に書かれている、奈良元安の前の、宇多津の旧領主名なんて、意味不明の名前ですよ。藤橘雨鶯?なんて、

存在しない名前だと思いますよ。

 

 さて、私のこの主張を補強する史料として、左写真「讃州細川記」を提示させて頂きたいと思います。この讃州細川記とは、

天和3年(1683年)讃岐香川氏の子孫である香川景助により書かれた、讃岐守護としての細川頼之の伝記です。香川県に残る

各種古文書を集めた、香川叢書に収録されています。Wikipediaにも載っていないので、あまり知られていない史料のようです。

で、左写真(国立国会図書館蔵)は、讃州細川記の中の一節、「細川諸士之事」です。細川頼之時代の家臣の紹介ですね。

まず、貞治年中(1362~1368年)に頼之は讃岐に、香川、安冨、奈良、山田氏らを、連れて来たと、書いています。1363年

白峯合戦(高屋合戦)で、細川清氏軍を破り、四国を統一していますからね、時代的には合っています。で、この四氏族は、

細川頼之時代の細川家四天王ですかね?(※香西氏は地元讃岐の出自ですからね、)次に著者である香川氏の先祖自慢が続き、

その後、奈良氏の紹介になります。「奈良太郎は、宇多津の地に所領を得て、宇多津の聖通寺山に城を築いた、」とあります。

はて?、どこかで聞いたお話しですね、南海通記の奈良太郎左衛門尉元安についての記述と、そっくりじゃあありませんか?

これを見て、多くの人々は、筆者である香川景助が、細川勝元時代の奈良元安を混同している?のだろうと、考えたようです。

まあ、南海通記(南海治乱記)の方が、史料として一般的には有名ですからねえ。

だから多くの解説書で、100年前の白峯合戦の戦功により?、奈良太郎左衛門尉元安は宇多津に領地を得た、になったのです。

しかし私は、この解釈、間違っていると考えます。香川景介は、正しいのですよ。何故なら本文中の奈良太郎と、南海通記の

奈良太郎左衛門尉元安は、別人だからです。この時代は、細川頼之・頼元兄弟の共同政権の時代です。で、頼之から1374年に

摂津守護を引き継いだ頼元は、1376年に、奈良五郎左衛門入道に、摂津垂水荘を領地として与えています。(東寺百合文書)

この奈良五郎左衛門入道とは、奈良俊阿のことです。出家していますからもう老人と思われます。更に、讃州細川記によれば、

この10年ぐらい前に、兄の細川頼之は、奈良太郎と言う人物に、宇多津の領地を与えている訳ですよね?(讃州細川記)

とすれば、奈良太郎とは、太郎ですから奈良五郎左衛門の長兄に違いないのです。史実に照らせば、このようになるのです。

わざわざ、100年後の奈良元安に混同させる必要はないのですよ。ですから私は、讃州細川記の記述を信じるのです。

ちなみに讃州細川記では、康暦の政変(1379年)で頼之・頼元兄弟が四国に一時避難(蟄居)したくだりでは、「出家し、

名前を常久居士と改めて、4月7日に細川一族全員で京都を出て、4月12日に讃岐の宇多津の港に到着し、その日は宇多津の

奈良氏の山城(聖通寺城)に宿泊した、」のだそうです。讃州細川記は短い文章なので、皆さんも是非ご確認下さい。

また同年11月の、宿敵伊予国守護、河野通暁との合戦では、奈良太郎も他の武将と一緒に出陣していたとの記載もあります。

ですからやはり、細川頼之の時代、讃岐奈良氏は、既に宇多津の地に、実在していたのですよ。 私は、そう確信します。 

さて、奈良太郎から始まり、奈良元安へと続いた讃岐奈良氏のその後は、いったいどのように展開したのでしょうかね?

(次回へ)