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西日本在住の奈良姓の人々の由来について、Ⅲ

  いつもこのブログをご覧いただき、誠にありがとうございます。

このところ、西日本に在住の奈良姓の方々の由来について、調べており

ますが今回は、細川氏の家臣だった奈良氏について、書いております。 

 

 がその前に、 現代日本の多数派である非正規労働者層についてです。

彼らは言わば、負け組な訳なんですが、普段は負け組であることに気づい

ていません。たまたま今は、運が悪いだけだと、思っているんです。

だから巻き返すために、与えられた仕事の中で、必死に頑張る訳です。

時間外も仕事をして、そこそこの給与を得ているので、生活水準としては、貧困層ではないと思われています。皆んな、必死なだけなんですが。

会社側は、彼らの苦労ををうまく利用して、たくさん働かせる訳ですね。

そうやって会社は、儲けているんですよ。ですから正社員と非正規社員

が、両方いる会社では、正社員が楽をして高給を貰っているように見える

訳なんです。だから非正規社員は、正社員が大嫌いになるのですよ!

非正規社員間では、どうしようもない正社員への悪口が飛び交いますね。

実際は正社員の方も大変なんですけどね、しかし正社員は法律上も、保護を

受けている訳です。でも非正規社員はひとり孤立しているので、悲しいかな

面と向かっては、何も言えないのですねえ、、、

 

 さて前回は、三河の弱小御家人であった細川氏が、6代目細川頼之の代に、大飛躍を遂げた史実を

見て参りました。鎌倉滅亡、南北朝から室町幕府の成立までを描いた軍記物太平記は、細川頼之が

室町幕府管領になる場面で終わっているのですが、その後の細川氏については、数々の歴史文書が

残っています。それらの文書中に奈良氏の名も、6代細川頼之の養子(弟)である7代細川頼元の

家臣名として、ようやくちらほら登場するようになります。細川頼元からの書状(東寺百合文書

1376年)だってあるんですよ。奈良姓の歴史史料への登場は、何と、吾妻鏡、以来のことですわ。

 

 で、7代細川頼元の家臣として、奈良俊阿(五郎左衛門入道)の名前が、まず最初に出て来るのですが、

この人何と摂津守護代を務めていたのですよ。え?あの奈良氏がですか?、ちょっと信じられませんねえ。

世間的にも、あまり知られていませんからねえ。嘘じゃないのか?と、思ってしまいませんかね?

でも今回のその証拠の写真が、「摂津守護代奈良俊阿書状」(東寺百合文書1376年)、これなんです。

細川頼元の家臣、奈良俊阿が実在していた証拠です。世間的には、全然知られていない人物なのですが、

本当に実在の人物だったのですねえ! ちゃんと、俊阿の署名もありますね、皆さん読めますかね?

ところでこの写真は、京都府立京都学、東寺百合文書Webで、閲覧が可能です。是非とも皆さんご確認を。

※東寺百合文書Webでは、文書の日付、差出人、宛名、登場人物名等、の付帯情報が記載されています。

 

 実は細川頼元は、幕府管領になった兄、細川頼之より、1374年に、摂津守護職を譲られているのです。

それで細川頼元は、一番の家臣である?奈良俊阿(五郎左衛門入道)を、摂津守護代に任命したのだと、

思われるのです。書状の内容は、摂津国垂水荘(大阪府吹田市と豊中市の一部)の下司職(代官)に

ついて、なのだそうです。奈良俊阿(五郎左衛門入道)、ちゃんと摂津守護代職をやっていたんですねえ。

ちなみに宛名は、飯高弾正忠殿です。この人が多分、摂津垂水荘園の代官(下司職)なんでしょうね? 

つまり、細川頼之・頼元兄弟の時代、奈良氏一族は、細川家の重臣であったことが明らかになったのです。

 

 私はこの頼之・頼元の時代、讃岐奈良氏の代官が、宇多津の地にも存在していた、と考えております。

その後の康暦の政変(1379年)で、管領細川頼之は一時的に失脚し、頼之・頼元の兄弟は、旧領である

讃岐の宇多津へと逃れているんです。当然、二人の世話をする奈良氏一族も、一緒だったハズなんです。

つまり細川頼之・頼元兄弟が、一時の苦難を乗り越えた重要拠点が、讃岐の宇多津だったのですよ。

兄弟の居城は多分、高松市香南町の岡地区などではありませんよ、鵜足(宇多津)郡内の丘の館なのです。

ですから細川頼之・頼元の時代からの家臣奈良氏は、宇多津の地も管理していたハズだと考えるのです。

 

 更にその後も、細川氏が摂津守護だった時代には、奈良又四郎、奈良元俊と、奈良氏は代々摂津国の

守護代に名前を連ねています。(高野山文書等) つまり、細川氏が室町幕府の管領として有力である

間は、三河細川郷以来の古くからの家臣であった奈良氏も、一緒に重用される存在になっていたのです。

私、一時期の奈良氏は、もしかすると、幕府管領細川家の執事家臣(家宰)だったのかも知れないと、

考えています。何故なら、管領細川頼之⇒細川頼元の代の記録史料に、最も多く名前が出て来るのが、

奈良俊阿⇒奈良又四郎(親子か?)だからなんです。ですから少なくとも、管領細川家の重臣であった

ことは伺えるのですよ。まあ世間的には、奈良氏なんて、全然注目もされていないんですけどねえ、、、

 

 讃岐奈良氏としては唯一、細川勝元の代の細川家四天王のひとり、奈良元安の名前だけが、それなりに

知られている訳なのですが、実際は、細川京兆家初代の細川頼之の時代から、奈良氏は細川家の重臣で

あったことが解るのです。ですから讃岐奈良氏は、細川頼之から、1362年の白峯合戦(高屋合戦)勝利

の後、細川家家宰として、讃岐国鵜足(現宇多津町)の管理の方も、多分任されていたのですよ。

宇多津は合戦の場であり、四国管領として細川頼之の居城でもありました。実は当時の宇多津は、讃岐国の

守護所(首都)でもあったのです。白峯合戦に勝利し、四国を統一し、その後室町幕府管領として京都に

赴任する細川頼之は、そんな要衝である宇多津を、奈良氏に託したのです。細川頼之の信任が、どれほどで

あったのかも、良く解るのです。同様にこの頃、細川頼之の家臣となった香川氏も、白峯合戦での戦功により、

奈良氏同様、宇多津の近所の、多度津の地を、領地として得ています。(西讃譜誌)更にその後は、西讃岐の

守護代を務めるようになります。まあ香川氏の名は、香川県として、讃岐の現在の県名にもなっていますね。

このように宇多津の地は、巷言われているような、後代の奈良元安が、細川勝元から初めて拝領した土地?

などではないのですよ。 さて?(次回へ)