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西日本在住の奈良姓の人々の由来について、Ⅱ

 いつもこのブログをご覧いただき、誠にありがとうございます。前回からは、現在、

西日本に在住の奈良姓の皆さんの、由来・歴史について、書かせて頂いております。

 

 さて、日本社会の多数派である、非正規労働者層なんですが、前回お示ししたように、

学生・若者から高齢者層まで、幅広い世代を含んでいます。ですからその特徴を、一言で

表すのは難しいのですが、あえて一言で表すとすれば、社会の負け組層である、と言う

ことが出来ます。対極には富裕層と中間層がいます。(※中間層は激減していますがね、)

まあほんの一握りの勝ち組と、中間層が少しいて、大多数の負け組がいる、という構図で

しょうかね。でも負け組と言われると、かなり反発が来そうですね。じゃあ負け組に見える

層、とでも言い直しましょうかね?負け組じゃあない方々も、大勢いらっしゃいますから。

しかしこの非正規労働者層(負け組に見える層)、決して貧困層だ、と言う訳ではありま

せん。この点がよく誤解されている点だと思います。見かけ上は、貧困層じゃないんです。

つまり元気な内は目一杯、時間外も働いて、そこそこの稼ぎは得ているのですよ。なので

表面的には中間層と変わらない生活水準である場合が多いのです。俺たちも中間層だぜ!

という錯覚を起こしている場合もあります。しかしその生活に、持続保障はありません。

将来病気をして働けなくなれば、その生活は、一気に崩壊してしまうのです。また、会社

の業績が悪化すれば、真っ先にクビ(契約終了)になるのもこの層ですわね。この点が、

正社員との違いですね。ですから誰もが皆、正社員になりたがる訳です。と言う訳で、非

正規労働者層は、普段は何も言いませんが、正社員・中間層が大嫌いです。ある種恨みや

怒りを持っています。組織化されていないので、爆発していないだけのこと、なのですよ。

何故なら彼らは、人生のどこかで、大きな挫折を味わっているからです。それで心のどこかで、

自分は負け組だと感じています。なので負けまいと、勝ち組に対して感情を爆発させるのですよ。

 

 ところで、奈良姓が西日本で全国平均値より多い地域は、香川県西讃岐地区(丸亀市、坂出市、

宇多津町)、兵庫県南あわじ市や洲本市、大分県大分市・宇佐市、辺りなのですが、今回は、

細川氏の家臣であった武家、讃岐奈良氏について、色々と書かせて頂いております。  

そして前回は、承久の乱後に、三河国の細川郷に領地を得た初代細川氏の入植に、東国から一緒に

付き添って来た?、奈良氏の関係と背景について、書かせて頂きました。細川氏も奈良氏も、同じ

零細鎌倉御家人だったのですね。一緒に来た理由ですか?、理由も零細御家人だから、なんです。

零細御家人には家臣がいないのですよ。つまり入植人数が足りないのですよ。だから複数の鎌倉

御家人達が、一緒に入植して来るのです。入植時は、鎌倉幕府に仕える弱小御家人同志ですから、

主従関係は無かったと思います。しかし家柄の違いはあったと思われますね。ですからその後には

主従関係が出来上がって行ったのでしょう。何といっても細川氏は、庶流とは言え、源氏の一門、

足利氏の血筋ですからねえ。ですから足利氏本家だった足利義氏は、三河国の守護になれたのです。

さて、三河の額田郡細川郷(現岡崎市細川町)に入植した初代細川義季の痕跡は、実は何もなく、

僅かに写真の「細川御前田城跡」の新しい石碑があるだけなのです。岡崎市と言えば、徳川家康の

生誕地ですからねえ、今ではそちらの史跡ばかり、なのですよ。まあ仕方がありませんわねえ、、。

また、細川御前田城跡と呼ばれてはいますが、後代の単なる細川氏の館跡なのだと思われます。

 

 で、この弱小御家人であった細川氏が発展するのは、鎌倉幕府が倒れ、南北朝期に入る頃から、

以降のことなのです。1333年、足利尊氏が鎌倉幕府倒幕ののろしを上げると、細川家4代目の

細川和氏、頼春、師氏兄弟や細川顕氏らは、こぞって尊氏に従います。まあ親戚同士ですからね。

足利尊氏の登場に伴って、その家臣である細川氏もようやく、注目される存在になったのでした。

細川氏は、尊氏の子、足利義詮を補佐して鎌倉を掌握させたり、尊氏の命により、南朝方だった

阿波国や讃岐国を攻略するなどの功によって、足利氏内の重臣となって発展していったのでした。

そして細川和氏の子、5代細川清氏は遂に、二代将軍足利義詮の執事(執権?、後の管領)の地位を

獲得したのでした。当然、伊勢国など、いくつかの国の守護大名にもなっています。(※それまでの

足利氏の執事の座は、高師直らが担っていましたが、観応の擾乱により、滅亡してしまったのです。)

 

 このような細川氏の発展により、家臣である奈良氏の方も、少しずつ注目される存在になって行きます。

奈良氏の名前がちらほら現れるのは、5代細川清氏が失脚し、6代細川頼之が幕府管領として台頭して

来てから以降のことなのです。1362年細川頼之は、西讃岐の白峯合戦(高屋合戦)で、従兄の細川清氏

を破り、四国を統一し、遂には、室町幕府の管領(細川家筆頭)にまで、上り詰めたのでした。

私は、讃岐の奈良氏が、代々細川頼之家(父細川頼春)の執事家臣(家宰)だったのではないかな?、

と考えています。(足利将軍家と細川家の家宰関係みたいな感じか?)

ですからその後の細川京兆家時代に入ると、奈良氏は、細川家の内衆(重臣)へと、発展して行ったのです。

しかも奈良氏は、細川頼之が、5代目細川家当主であった細川清氏を打ち破って6代目当主と管領になった

戦勝の地である、讃岐国鵜足(香川県宇多津町)の代官(地頭)となり、さらにその後の奈良元安の代には

鵜足・那珂二郡の領主にまで昇りつめているからなのです。(南海通記より) ※讃岐奈良氏の誕生です。

ですから室町期、細川京兆家(管領家)が隆盛であった時代には、奈良氏も一緒に発展することが出来た

のでした。 でも、奈良氏も一緒に発展した?って、それ本当の史実なんですかねえ?(次回へ)