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埼玉に残り続けた、奈良姓の先祖の歴史Ⅲ

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。本日より10月です。

 

 枕で、非正規労働者層が主流になって来て、世の中が変わって来ているという

お話しをさせて頂いております。影響力の低下という意味では、マスコミは既に、

スマホSNSに負けています。人々はもはや、新聞もテレビも雑誌も見ないのです。

情報源は全てスマホ内にあるからです。私の若い頃は、マスコミ全盛期でしたけど

ねえ。ターゲットが間違っている、という点は前回お示ししました。あと凋落した

要因としては、メディアの粗製乱造があります。多額の広告収入があるので、粗製

乱造が許されるのですね。情報は発信され続けますが、受け手にとって価値のある

情報は皆無になっています。今のテレビ番組などが顕著ですね、ほとんど視聴者が

いない中、だらだらと24時間電波が発信され続けています。視聴者は、だらだら

番組をだらだら見る程、暇ではありません。その内スポンサーにも見捨てられますよ。

誰も見ないTVなら、広告効果だって無いのですからね。youtubeの方が、広告効果は上ですよ。

新聞だって、もはや朝夕刊宅配なんて古いのですよ。情報伝達が遅すぎるからです。紙の新聞は、

間もなく絶滅して行くでしょう。スマホのポータルサイトのニュース情報で十分だからです。

しかも情報が早くて、無料なんですからね。

更に言えば、ポータルサイトのニュースには、評価機能やコメント機能が付いているんです。

これらの機能により、ニュース情報を熱く盛り上げています。まあこれがネトウヨ層の誕生に

関わっているんですけどね。でも大いにネット世論は沸騰する訳です。このネット世論の動向を、

必死に追いかけているのが現大手マスコミなんです。もはやマスコミは、自ら世論形成は出来ない

のですよ。ですからマスコミは、存亡の危機に立たされているのです。一方で、ネット上には、

フェイクが溢れています。冗談の類から、悪意のあるものまで、多種多様のフェイクです。でも

受け手側にとっては、フェイクかどうか?は、実はどうでもいいことで、情報が心地いいかどうか?

だけなんですよ。この辺りの認識も、マスコミは間違っていますね。もしマスコミが、生き残って

行きたいと願うのなら、ターゲット層を、中間層から非正規労働者層へとシフトすることと、

メディアをスマホ中心に変えることをお勧めします。まあ、広告料収入は減るかも知れませんがね、、。

 

 さて、現在は、奈良姓の発祥以来、ずっと埼玉県に残ってこられた奈良姓の人々の歴史について、

行田郷土史研究会 森尾津一氏著の「郷土忍の歴史」を元に、色々とご紹介をさせて頂いております。

(私はこの書を、ネットのサイトで拝読しております。)で、掲載写真は、著書であると思われる?、

「行田市史 資料編 古代・中世」です。「成田記」(龍淵寺蔵)の一部も付属していますよ。

成田記は現在、一般には読むことが出来ませんが、「行田市史 資料編 古代・中世」を購入すれば、

のぼうの城の元になった部分の成田記は、おまけで付いて来るようです。※価格\3,500だそうです。

 

 前回は、「郷土忍の歴史」より、1517年に、他の成田氏三家に攻められて?、武家である奈良氏は

滅亡したらしい、と書かせて頂きました。しかし実際には、現在までも、加須市や久喜市、川越市

等を中心に、多数の奈良姓の人々が、暮らしている訳です。むしろ、別府姓や玉井姓の人々の人数の方が、

現在の埼玉県には、圧倒的に少ないのですよ。これいったい、どういうことなのでしょうかね?

まず別府氏については、東別府氏として、戦国末期の小田原攻め・忍城の戦いで、滅亡するまで存続しました。

ですから記録や、別府城址などの遺構も、今もそれなりに残っています。奈良氏や玉井氏などより、よっぽど

長く生き残っていた訳ですね。ところが現在の埼玉県内に、別府姓を名乗る人々は、ほとんどいないのです。

別府氏(東別府氏)は、ずっと武家でしたからね、武家はやはり敗れると、同じ姓では生きていけないのですよ。

そして領地を追われるからですね。更に武士にとっての姓とは、自分の土地の名、そのものなんですからね。

 

 次に玉井氏については、「郷土忍の歴史」では、室町期を通じて、成田氏の与力として活躍していたように

描かれてはいるのですが、別の説では、1416年の上杉禅秀の乱で、禅秀側に付いた玉井氏は、東別府氏により

滅ぼされた、との記述も見られるのです。まあ弱小武士団ですから、あまり記録史料が無く、不明なのですね。

私は玉井氏が、成田記の記載だけで、他に記録が無いとすれば、やはり1416年に滅んだのかな?と思いますね。

更には、本家成田氏だって、1590年の豊臣秀吉の小田原征伐で、一度は滅ぼされていますからね。まあその後、

秀吉の側室になった甲斐姫の活躍?によって、成田氏は復活するんですが、領地は変更されている訳です。

ですから成田姓が現在も、少しは埼玉に残っているとは言え、大量に現存しているという訳ではないのでした。

さてこれらの史実から、どうして現在の埼玉県には、奈良姓、成田姓の人々はいるのに、別府姓、玉井姓の

人々はいないのか?を、考えてみます。別府氏と玉井氏は、滅ぼされていると考えれば、これらの姓が、

現在の埼玉県に少ない点は理解できます。岩手県(南部領地)に奈良姓が少ないのと、同様の理由ですわね。

武家社会の暗黙ルールとして、滅ぼされたら、基本は根絶やし、なのですよ。だから姓を変える訳です。

しかし成田氏だって同様に、秀吉軍によって一旦は滅ぼされている訳です。奈良氏だって、行田郷土史研究会

森尾津一氏の「郷土忍の歴史」によれば、1517年に滅ぼされている訳です。何とも不思議ですよね?

そこで私の説です。何故奈良姓が、埼玉で生き残ったのか?と言うと、武士をやめて自領で農民になったから、

生き残れたと考えるのです。相手が親類の成田氏であった点も、幸運だったと思います。命までは取らなかった

のでしょう。弱小奈良氏と言えども、武士=小領主です。ですから自分の領地に帰って農民になったのですよ。

別府氏や玉井氏は、滅亡時に、土地は没収されてしまったのでしょうね。成田氏は後に許されましたので、

少しは旧領地も残ったのでしょう。その地で農民になった訳です。元々東国武士団は、農民ですからね。

農民に戻ったからこそ、ずっと生き残ることが出来たのです。江戸期に入ると彼らは、名主(なぬし)と

呼ばれるようになります。代々名乗って来た名前(奈良姓)があるからですね。こうして奈良姓の人々は、

埼玉県内で現在まで、名前をつないで来たのでした。

え?、でもちょっと待って下さい、武家奈良氏の本領は、熊谷市の奈良村ですよね?。ところが現在、熊谷市

奈良地区には奈良姓がおらず、現在多数の奈良姓が住んでいるのは、加須市や久喜市、川越市なんですけど、

この点は、一体どういう事なのでしょうかね?

で、私の解釈はこうです。成田氏は、延徳年間(1489年~1492年)に、忍氏を滅ぼし、忍城を築いています。

実はこの時、成田氏の本領を上之(熊谷市)から忍(行田市)へ、移転しているのですよ。その時、成田氏の

家臣達の領地も、当然それぞれ領地替えされていると思うのです。ですから奈良氏一族の領地も、家臣ごとに

加須市や久喜市、川越市に点在して行ったのだ、と思うのです。だから現在も、これらの地区に、奈良姓が多い

のです。逆に熊谷市の奈良村は、ほかの家臣の領地になってしまったので、奈良姓は誰もいなくなったのです。 

武士と違って農民にとっての姓とは、土地(領地)の名ではなく、単なる一族の歴史なのですからね。

さてこの説、いかがでしょうかね?(この項、了。)