いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。前回より、埼玉に残り
続けて来た奈良姓の人々の歴史について、書かせて頂いております。
枕は前回に引き続き、全労働者人口の40%を占める、非正規労働者についてです。
何故彼らは、マスコミを信じず、スマホしか見ないのでしょうか? 理由はマスコミ
側が想定している情報の受け手(マス=大衆)像が、間違っているからなんです。
マス=多数派とは、正規労働者=正社員、夫婦+子供の家庭、平均年収でゆとりあり、の層であると勝手に思い込んで、情報を発信しているからなんです。まさに中間層と言われる人々ですね。でもこんな層、もはや少数派なんです。実際の現在の多数
派とは、こんな感じです。非正規労働、未婚男性+シングルマザー、底辺年収、日々働きづめの生活、まあこんな人々です。実は彼らが本当の多数派なんです。ですから
マスコミの発信先へのピントが、ずれているので、多数派はみんな、マスコミを信じず、
スマホSNSへと走るのですよ。もはや日本の中間層なんて、とうの昔に崩壊しているんです。
だからテレビも新聞も雑誌も、多数派からは捨てられつつあり、影響力が無くなって来ている
のですよ。まもなく来る、非正規労働者50%超えの衝撃は、日本社会を根本的に変えるかも
知れないのです。しかしマスコミは、このことを、まだ全然解っていませんね、、、
さて前回は、成田氏四家の土地の名前が、今も熊谷市内に残っていながら、埼玉県内には、
成田姓や奈良姓の人々は多数いるのに、別府姓、玉井姓の人々は、何故か少ないのだ!、
という事実を指摘させて頂きました。さていったい、どうしてなのでしょうかね?
と言う訳で、またまた成田氏系図の登場です。成田氏初代助隆の子4人がそれぞれ領地を得て、
成田氏、別府氏、奈良氏、玉井氏になった、とする成田氏系図の伝説ですね。しかし私は、
以前のブログで、この系図は、後代の成田氏による改ざんであると、指摘させて頂きました。
更には、初期の成田氏は、成田氏ではなく箱田氏のことである?、とも申し上げました。
つまり元々は、成田氏、別府氏、奈良氏、玉井氏は、別に親戚ではなかったのだと思うのですよ。
平安末期に、熊谷市内で別々に、農民武士団として成立したのですよ。ただ領地が、ほとんど
隣り同士の同郷であったため、鎌倉期には、同族として扱われたのでした。ですから武士団に
なってから後に、お互いの争いを防ぐため、成田氏四家の縁戚関係が出来上がったのだろうと
思われます。更にその後の南北朝期に、本家成田氏(箱田氏)が没落し、安保氏系の後成田氏へと
変化してから以降、後成田氏は、城持ち大名へと、大きく成長・発展して行ったのでした。
御祖五郎(成田小校歌より)成田家時あたりから、ですね。室町末期には遂に、戦国大名へと成長します。
で、この成田氏の大発展期に、別府氏、奈良氏、玉井氏に、何が起こっていたのか?が、鍵なのです。
しかしこの時代(室町期)の別府氏、奈良氏、玉井氏については、記録も乏しく、弱小武士団のお話し
ですので、世間的にも実態は、あまりよく知られていないのでした。
そこで注目したいのが、地元の郷土史研究家による、成田氏についての研究資料なのです。具体的には、
行田郷土史研究会の森尾津一氏による、「郷土忍の歴史」です。この中で、室町中期からの成田氏の
発展の推移についても、龍淵寺の「成田記」を元に?、詳しく述べられています。 ※「成田記」とは、
熊谷市の指定文化財になっている、成田氏の歴史を綴った江戸末期の古文書なのですが、歴代成田氏の
菩提寺になっている龍淵寺の所蔵のため、通常非公開の古文書です。1980年には出版もされたのですが、
現在は流通していません。ですから一般には読むことが出来ないんです。(成田記は、史実とは異なる、
虚飾の多い怪しい史料?、軍記物?、などとも言われているんですがね、、、。)
さて「郷土忍の歴史」によれば、御祖五郎の頃の成田氏は、当時関東管領家の執事であった上杉家の家臣
として、多くの戦に参戦し、成田氏の勢力も拡大して行きました。この時、別府氏、奈良氏、玉井氏も、
成田氏一族として、一緒に参戦していました。(1416年の上杉禅秀の乱、相模川の戦いの頃です。)
で、これ以降、成田氏の勢いが拡大したため、別府氏、奈良氏、玉井氏は、成田氏の家臣団に組み入れ
られて行きます。もはや弱小豪族単体では、生きて行けない時代になっていたのですね。更にその後の
成田顕奏⇒成田親奏の代になりますと、関東管領上杉家の家臣として、成田氏は更に強大になります。
1489年、遂には忍の名族、忍氏を滅ぼします。忍の地を得て遂に、忍城の築城が始まります。これにより
成田氏は、熊谷の上之から忍の地へと、本貫地を移したのでした。(この点が重要です。)でもこの頃は、
別府氏、奈良氏、玉井氏は、成田氏の家臣団として、まだ一致団結していたようです。
ところが成田記によると、1517年の合戦の際、事件が起こります。奈良氏が、主君成田親奏の出陣要請を、
病気と称して拒んだのだそうです。そこで成田親奏は、別府、玉井の兵に命じて、奈良氏の館を襲わせて、
奈良氏を滅亡に追いやったのだそうです。ああ遂に1517年、武家奈良氏は滅亡してしまったのですねえ。
(「郷土忍の歴史」より)
え?、奈良氏は滅亡した?、しかし現在でも、奈良姓の人々は、埼玉の加須市や久喜市を中心に、多数現存
していますけどねえ? 本当に奈良氏は、滅亡してしまったのでしょうかね?(次回へ)

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