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この所、7月に行った、私の先祖の由来地を辿る旅の様子を、お届けしております。
今世間では、旧統一教会の話題で世論が沸騰しています。発端は、安倍氏の襲撃事件
なんですが、いつの間にか統一教会問題が話題の中心になりました。私にとっては懐か
しい名前でして、学生時代、ウチの大学にも原理研がありまして、学生自治会と論争を
繰り広げていました。当時は、単なるカルト集団か?、と思っていたのですが、最近の
報道を見ますと、より巨大組織になっていたのですね。もはや宗教団体ではありません
ね。平和とか家庭・家族、人類愛とか、他人が否定出来ないキャッチコピーを活用した
集金ビジネスですね。洗脳によって自主的献金?を強要する、ビジネスモデルです。
宗教法人にしているので、税金もかかりませんね。更には壺とか聖本とかを、韓国から
安く仕入れて、免罪符として高額で信者に売りつけるという、見事な商売ですわ!。
こうして日本人信者から巻き上げたお金は、韓国の教会本部から、一体どこに流れている
のでしょうかねえ??、、私、「統一」という文字が、妙に気になるのですがね、、、
旅の5日目は、私の祖父:奈良源太郎の生まれ故郷、弘前市です。しかし正確には、
祖父の生まれ故郷は、弘前ではありません。正しくは、弘前市郊外の藤崎町になります。祖父は、明治後期に生まれているからです。家の家業はリンゴ農家でした。
でもそれ以前からずっと、家がリンゴ農家であった、とは思っていません。何故なら、
青森のリンゴ栽培は、明治期に入ってから、武士の失業対策として、青森県農政局が、
米国から導入したものだからです。つまり江戸期以前の日本には、西洋リンゴ栽培は、
無かったのですよ。ですから5代前の高祖父:奈良源三郎の代までは、武士であった
ハズ、と言えるのです。即ち江戸期までは、弘前藩の武士であったと思われるのです。
高祖父、奈良源三郎は、江戸時代後期に生まれ、明治8年に亡くなっています。
まあ下級武士でしょうがねえ。九戸政実の乱で鹿角から落ち延びて、初代藩主になる
津軽為信に、拾ってもらった訳ですからね。(鹿角由来記等より)
でもどうして津軽為信が、奈良氏一族を助けたのか?、と申しますと、九戸政実の乱の
前年に、南部信直は、九戸政実に、津軽為信の討伐を命じていたんです。しかし九戸
政実は、病気と称して出陣しなかったのですよ。これにより津軽為信は、南部氏配下
から、独立することが出来たのでした。これに恩を感じていたので、九戸の乱で逃れて
来た奈良氏や成田氏(大里氏)の一族を、津軽為信は、かくまったのでした。
(九戸の乱は、この翌年のことでしたからねえ。)
奈良氏一族が津軽氏に仕官したという、この史実の証拠として、明治初めの廃藩置県の際に、
弘前藩に提出されている家臣名簿があるのですが、数多くの奈良姓・成田姓の家臣達の名が、
記載されているのですよ。いっぱいいらっしゃいますよ。
(※明治初期の、弘前藩由緒書き、代数調べ等:弘前市立図書館)左リンクを貼ります。※76/206~
ご確認下さい。私は、この家臣名簿にある、奈良善三郎元利が、私の高祖父、奈良源三郎
であろうと、思っております。(多分、転写時の写し間違えかな?)
で写真は、弘前城天守閣です。実際に行ってみますと、想像以上に小さい天守閣でしたね。
もちろん現在の天守は、津軽為信の時代のものではなく、江戸時代後期の再建天守なんです。
昔は五層の大天守だったそうですが、江戸期の再建計画では、幕府が天守再建を許さなかった
そうなのです。そこで弘前藩は、幕府に「櫓」の再建だと偽って、天守を再建したのでした。
だから小さいのですねえ。それでも東北地方に残る、唯一の天守閣なのだそうですけどねえ。
しかしながら、10万石の弘前城址である弘前城公園は、めちゃめちゃ広かったですよ。レンタル
自転車を借りて、城内を巡ったのですが、それでも大変でした。徒歩での散策は無理ですよ。
公園内には、植物園や博物館、津軽藩ねぶた村などの観光施設もありました。(※有料です。)
と言う訳で、旅の5日目は、江戸期の私のご先祖達の、「勤め先!」を探訪したのでした。
最終日6日目は、祖父の出生地である弘前市の隣り町、藤崎町を訪ねてみる予定です。(次回へ)

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