いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。このところ、私の先祖の
由来地を巡る旅の記録を、台風襲来にも負けず、お届けしております。
米中対立の高まりにより、台湾周辺の緊張が高まっております。この状況により、
ロシアのウクライナ侵攻への関心が、少し薄まって来ているように思われますね。
中国の主張の根拠は、台湾は中国の領土、なんですが、実際には中国共産党の領土では
ない訳です。でも中国の主張は常に、中国=中国共産党で主張してる訳です。ですから
、中国の領土である台湾に侵攻するのは当然である、という変な理屈になるんですね。
日本が、日本の領土である北海道に侵攻するのは当然である?とか?? でも
これ、中国・ロシアの思惑通りの展開のような気がします。どのみち中国・ロシアは、
このような展開を望んでいた、ということです。中国、ロシアの連携による、台湾と
ウクライナの、同時紛争化ですね。これにより、米国は、ウクライナと台湾、両方に
関与せざるを得なくなり、力が分散されるため、中国、ロシアともに、自軍の優位を
確立出来るだろう、という目論見です。多分中国も近々、台湾に侵攻して来ますよ。
いよいよ日本も、戦争に巻き込まれる訳です。その覚悟が、今我々にも必要なのです。
日本も台湾と共に、ウクライナになるかも知れませんよ。まずは沖縄ですね。
さてその覚悟が、日本国民には、ありますかね?
で前回に引き続き、鹿角の大湯鹿倉城跡の2回目です。前回は、鹿倉城跡の紹介と、
九戸政実の乱での鹿倉城および城主、大湯四郎左衛門昌次の運命について、見て参り
ました。しかしこの大湯四郎左衛門昌次、本当に奈良氏と関係があるのですかね?
鹿角由来記には、大湯氏の本姓は、奈良であると、書いてはありますけどねえ、、、。
もし、奈良氏と大湯四郎左衛門昌次が無関係であれば、お笑い草ですよねえ。
と言う訳で、今回の写真は、前回鹿倉城跡の案内標識の、裏側写真です。ご覧下さい。
鹿角奈良氏の惣領が、大湯城主だったと書かれていますねえ。地元の郷土史研究会も、
私と同じ考えのようです。私もホッとしました。これにより、鹿角奈良氏と、大湯鹿倉城、
そして九戸政実の乱が、全て一つの線で結び付いたのでした。遂に奈良姓の歴史の一部が、
証明されたのでした。鹿角由来記によると、鹿角郡には、42の館(城)があって、
鹿角四頭(成田氏、安保氏、奈良氏、秋元氏)が、それぞれの領地を治めていました。
大湯は、奈良氏の惣領家が大湯氏として治めていたのですが、それ以外の土地、新斗米
村、瀬田石村、小枝指村、小平村、葦名沢村等も、奈良氏の一族が治めていました。
皆それぞれの村の姓を名乗っていたのですが、本姓は全て奈良、なのだそうです。
そうです、やはり大湯の地は、間違いなく、奈良氏の故地であったのでした。
同様に、成田氏や安保氏の一族も、それぞれの領地名を名乗っていた訳なのですが、本来であれば
鹿角四頭の筆頭であるハズの、成田氏については、鹿角の惣領家が、実はよく判らなくなっています。
成田氏では、毛馬内氏の名前が出て来るのですが、私はこの毛馬内氏、成田氏系ではないと考えています。
元々は、鹿角成田氏の惣領家は、毛馬内氏だったと思いますよ。多分鹿角の最重要地だったのでしょう。しかし
鎌倉幕府の滅亡、南北朝動乱により、本家の成田氏が衰退しているのです。鹿角成田氏の毛馬内氏も同様です。
とすると、鹿角由来記に登場する毛馬内氏は、一体誰なのでしょうか? それはつまり、九戸の乱の後に、
勝者である南部氏側から任命された、毛馬内村の新領主名なのです。(乱後の、大湯村の新領主:大湯五兵衛昌忠
も同様ですね。※大湯四郎左衛門昌次と、兄弟なんかじゃありませんよ。)
東国で姓とは、元々自分の領地の名前を名乗るものだからです。血統は関係ないんですよ。
成田氏の歴史も理解している我々には判るのですが、室町期に成田氏は、安保氏系統に置き変わっている
のですよね。つまり成田氏本家筋で言えば、室町以降、成田氏と安保氏は、同じ系統になっていたのです。
で、鹿角由来記が書かれたのは、江戸中期です。この頃に、いにしえの鹿角を遡っているのです。ですから
鹿角由来記では、成田氏と安保氏が、別々の家系であると信じられていたので、鹿角の成田氏については
不明のような扱いになってしまっているのでした。本当は、安保氏系だけで考えればいいのですよ。
で、その安保氏ですが、惣領家は大里氏、とあります。そうですね、九戸の乱で、大湯四郎左衛門昌次
と共に、乱の首謀者一味として処刑された、大里修理親基です。大里氏こそが、鹿角四頭の筆頭であった
のでした。つまり、九戸政実の乱で、鹿角四頭の領主達は、総力を挙げて、九戸方に味方し、戦ったのです。
鹿角四頭の秋元氏系の領主達も、まったく同じですよ。
ですから、乱の後、鹿角四頭の領主達は皆、鹿角の地を追われることになってしまったのでした。
(※南部盛岡藩 系胤譜考、東北縦貫自動車道発掘調査報告Ⅰ、などより。)
東の南部氏(岩手)は敵ですからね、逃れる土地は、西の秋田か、北の津軽しか、なかったのですよ。
(次回へ)

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