いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。私の奈良家の先祖の故地を巡る旅の記録を書かせて頂いております。
私の周辺でも感染爆発が止まらず、コロナ陽性者が続出しております。私の母親も友人も、コロナになりましたが、ワクチンを打って
いるので、重症化はしませんでした。このような世間情勢になりますと、もはやコロナ感染は大騒ぎするのではなく、淡々と受け入れ
るしかないかと思われますね。症状があっても自宅療養だけで、処方されるのは普通の風邪薬だけなのですが、重症化はしないので、
深刻になる必要はないのですよ。感染隔離対策も、なるべく人にうつさないように努力するぐらいで、仕方がないのでしょうね。
しかしこの現状が、3年間、国民総てが総力を挙げて取り組んで来た、コロナ対策の結末で、本当に良いのでしょうかね?
同じ奈良姓の皆様でも、明治期まで住んでいた地域により、ご先祖の由来は様々です。私は奈良姓が、大きく分けて3つの群に
分かれるだろうと、考えています。ひとつは、秋田・青森に居住していた奈良姓の人々で、私の先祖も、この系統ですね。
もうひとつの系統は、奈良村・奈良姓の誕生以来ずっと、埼玉(武蔵国)に居住し、成田氏の所領地近辺で暮らしてきた人々です。
そして最後の系統は、西讃岐地方と近畿方面に居住していた奈良姓の人々です。私は日本全国全ての奈良姓の皆さんは、この3つの
系統(群)の、いずれかに該当するハズと、考えております。もちろん全国の奈良姓の発祥は、平安末期の埼玉県熊谷市の奈良地区
であると思っていますよ。姓(土地の名)を名乗る風習が流行ったのは、平安末期の東国武士から、だからです。
そこから、上記の3系統に分かれた訳です。秋田・青森の奈良姓と西讃岐・近畿の奈良姓は、元々は武家です。埼玉の奈良姓は、
多くは農民であったろうと思われます。元々の奈良村発祥の武家奈良氏も、農民から成り上がった武士団だと、考えているから、
なんです。更に室町期以降は、埼玉の武家奈良氏は、成田氏の家臣に組み入れられていますので、多くは成田氏の領地内で、農民に
なったと思われるのです。(名主クラスかな?) もっとも、江戸期に入ると、もはやみんな、普通の農民なんですけどねえ。
現在の私の先祖の由来地を巡る旅の記録を完了させたら、次は西讃岐・近畿地方の奈良姓や、埼玉近郊の奈良姓についても、 色々
書かせて頂こうと思っております。
さて、私の先祖の由来地を辿る旅も3日目です。我々は、九戸城跡(二戸市)から、JR花輪線で十和田南駅へと向かいました。
秋田県鹿角市ですね。鹿角市は、東・南隣りが岩手県、北隣りが青森県という、秋田県でも県境の土地なのです。
フリー切符を利用して、まず二戸駅から好摩駅へ向かい、好摩駅からJR花輪線で十和田南駅へ向かいます。所要2時間ぐらいでした。
十和田南駅が、鹿角市大湯(大湯温泉)の最寄り駅になります。到着後、予約していたホテルの送迎車で、大湯温泉 ホテル鹿角に
向かいました。この地が、私の祖先達が、津軽に移る以前の戦国時代末期まで住んでいた土地、鹿角市大湯になるのでした。
で、まずは左側の写真からなんですが、この写真、ホテルの部屋から、大湯の市街地を一望した風景写真です。で、正面に見える山
の中腹あたりに、私が今回是非訪れたかった、先祖の痕跡が存在するのでした。私はホテルにチェックインするなり、ここを目指して
徒歩で出発することにしました。(疲れていた私の旅の同伴者は、かなりブーブーでしたけどねえ、、、)
で、ホテルから徒歩20分ぐらいで、県道66号沿いにある、2枚目写真の、鹿倉城跡の標識に到着したのでした。この城が、鹿角奈良氏
(大湯氏)の居城、戦国期まで存在していた大湯鹿倉城なのでした。私、感無量でした。標識の隣りには、この鹿倉城跡の散策のため
の、案内板(3枚目写真)まで整備されています。つまりこの地点が、城跡散策路の入口になるのでした。結構大きな城跡です。
案内板によれば、大手道を進むと、まず武家屋敷跡があり、更に進むと、鹿倉城の本丸跡があり、そこには何と、落城400年記念!の
鎮魂の石碑までもが、設置されているのでした。これはちょっとびっくりです。大湯の地元民はみんな、九戸方だったのでしょうね。
私としては、この案内板の表示に従い、九戸城跡訪問の時と同様に、城跡内を散策したかったのですが、私の同伴者が、かなり疲れて
いたので、誠に残念ながら、この入口部の撮影だけで、奥の散策は諦めることにしました。しかし奈良姓の皆様に於いては、遠い先祖
の故地を訪れながら、鹿倉城跡の全貌をご紹介出来ないことは、誠に申し訳ない気持ちであります。そこで城郭紀行家であられる
nobutakahukudaさんの、鹿倉城跡の紀行文へのリンクを貼っておきますので、こちらを、ご参照頂ければと思います。(写真あり)
また、鹿倉城の歴史については、天正19年(1591年)、九戸政実に味方した大湯(奈良)四郎左衛門昌次は、南部信直方の武将
大光寺光愛(正親)の猛攻を受けこの城は落城した、とあります。(右側写真)
その後大湯(奈良)四郎左衛門昌次は、九戸城に逃れ、九戸政実に合流しています。つまり、大湯鹿倉城の攻防時から、既に九戸の乱は、始まっていたのでした。つまり豊臣秀吉の奥州再仕置き軍が到着する前ですよね。
この鹿倉城跡で面白いのは、南部氏方に攻め落とされた城跡でありながら、その後の領主の城跡も、同じ敷地内に残っている点です。
案内板写真下部にも、大湯城跡と、ありますよね。こちらの城跡は、南部方であった大湯五兵衛昌忠の居城であったとされています。
ちなみに鹿倉城の方は、大湯四郎左衛門昌次で、2人は兄弟であったとされています。(※奧南落穂集より)
鹿角由来記によれば、大湯五兵衛は九戸の乱の後、南部氏の一門として2000石を賜り、大湯、小坂を領知した、とされています。
とすると、九戸の乱では、兄弟間で争った、ということなのでしょうかね? まあこちらの説が、通説のようなのですが、私は少し
疑問に思っています。大湯四郎左衛門昌次は、鎌倉期以降より続く奈良氏系だと思われるのですが、九戸の乱後の大湯五兵衛昌忠は、
多分、奈良氏系ではないのだろうと思っています。代々大湯の領主だから大湯氏なのであって、系統は変わっているだろうと思う
のです。九戸の乱で、天下人豊臣秀吉に逆らいながら、乱の後、反逆者の血縁者に領地が安堵されるなどとは、到底考えられない
からです。ですから九戸の乱後、信州の真田兄弟のようなことは、なかったと、私は考えます。だから皆、逃げるのですよ。
つまり、鹿倉城跡の区域内に、後の大湯城跡が残っているのは、兄弟であったからなのではなく、単にこの城郭区域が、大湯の領主
として、城を築くのに最適な場所であったから、だけのことなのです。(次回へ)





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