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奈良家の由来地訪問の旅 二戸市 九戸城跡。

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。前回からは、私の奈良家の先祖を辿る旅の記録を、お届けしております。

 

 コロナの猛威が止まりませんね。ワクチン接種の効果もあってか、重症化している割合は低いようです。ただ陽性の患者数だけは

非常に多いので、医療体制がひっ迫しているようです。しかし軽症で済むようなので、以前のような緊迫感は無くなって来ています。

一時話題になった、医療待機施設、酸素ステーションなんて、どうなったのですかね? 神奈川県では患者数が増えたため、発熱外来

など医療機関を受診しなくても、自己検査で陽性ならば自主隔離宣言が出せるようになったそうですね。もはや医療崩壊の極みだろう

と思いますけどねえ。コロナの人数は増えても、単なる風邪の一種?への、予兆のようにも思えます。

こうなりますと、尾身会長の言う、コロナの5類相当への移行の話しも、現実味を帯びて来ます。風邪やインフルエンザと同様の対応

になるのですよね? まあ重症化しないならいいや?、ですかねえ?

でも、ホントにいいんですかね? ワクチン接種が有料になりますよ。また、検査料・治療費も3割負担になりますね。保健所の指導

も、無料入院も、無料ホテル療養も、パルスオキシメーターの貸し出しも、自宅療養者向けの食料品支援物資も、無くなりますわね? 

これで本当に大丈夫なんですか?、、、本当に普通の風邪??、、、、

 

 さて、私の奈良家の先祖を巡る旅の2日目は、岩手県二戸市になります。が、実際の旅程では3日目になりました。実は私、今回の

旅の移動手段として、JRの「北海道&東日本パス」を利用した関係で、鈍行列車のみでの移動になっていたのでした。それで旅の初日

は、仙台までの移動だけに費やし、2日目は、みちのく公園ふるさと村の見学と、盛岡までの移動で終了していたのでした。

そして3日目には、このフリー切符を利用して、盛岡よりIGR岩手銀河鉄道線で、二戸市へと向かったのでありました。

 

でも岩手県二戸市って、あまり知られていない土地ですよね? どうして奈良姓の由来の旅で、二戸市を訪問しなければならなかった

のでしょうか? それは、私の奈良家が、津軽に移住しなければならなくなった大事件に、深く関係した土地が、二戸市だったから

なんです。そうです、戦国末期の九戸政実の乱ですね。この乱の主戦場となった九戸城跡が、岩手県二戸市にあるから、なんです。

現在、青森・秋田に在住する多くの奈良姓の皆さんは、鎌倉期以降、秋田県の鹿角を拠点としていたのですが、九戸政実の乱により、

鹿角の地を追われ、青森・秋田へと逃れたのでした。その契機となった九戸の乱の古戦場が、二戸市にあるのですから、青森の奈良姓

としては、是非とも行かねばならないのでした。ちなみに、鹿角の奈良姓が、津軽へ逃れた古記録史料としては、「鹿角由来記」や

「奧南落穂集」等に記載があります。是非、ご確認下さい。

 

と言う訳で、IGR二戸駅に到着したのですが、二戸駅には、東北新幹線でも行くことが可能です。函館までの新幹線の延伸によって、

二戸にも新幹線駅が出来たからです。今は、はやぶさを利用すれば、東京からでも午前中には、二戸駅に到着することが出来ます。

さて二戸駅から我々は、徒歩で「二戸市埋蔵文化財センター(左写真)」を目指すことにしました。市内を流れる馬淵川を渡って、

徒歩10分ぐらいです。ここでまず、ビデオ等で九戸政実の乱についてお勉強します。※入館料\50  九戸方5000に対し、豊臣方

6万5千が会い対峙した、戦国期最後の合戦でした。その九戸方として、我々の先祖、鹿角奈良氏(大湯氏)も参戦していました。

九戸の乱で、鹿角奈良氏の惣領家である大湯四郎左衛門昌次は、九戸方の重臣として、九戸城に参陣していたのでした。

文化財センター訪問の後、当日は暑かったので、タクシーで九戸城跡にある、九戸城ガイドハウス(写真2枚目)へ向かいました。

九戸城跡散策のための、ビジターセンターですね。ここで我々は、事前に予約していた、ボランティアガイドさんと合流しました。

九戸城のボランティアガイドは、二戸市観光協会が運営していて、費用はもちろん無料です。今回は、九戸城跡を約1時間ぐるっと

巡りながら、豊臣再仕置き軍と、九戸方の戦いや、城の遺構について、ガイドさんから詳しい説明を受けました。(写真3枚目)

 

 九戸政実の乱とは、戦国末期の天正19年(1591年)に起きた、豊臣秀吉再仕置き軍と九戸政実軍との戦いです。しかし元々は、

地元南部氏内部の跡目争いの抗争だったのでした。惣領家になった南部信直陣営と、九戸氏陣営の争いでした。まあ部族内紛争

ですよね。それが大きく動いたのは、九戸方の攻勢を防ぎきれなくなった南部信直が、息子を派遣し、豊臣秀吉に助けを求めた

からなのでした。秀吉は南部信直の求めに応じ、豊臣秀次を総大将とする総勢6万5千の奥州再仕置き軍を、派遣したのでした。

徳川家康、前田利家、大谷吉継、石田三成らの軍が、蒲生氏郷・浅野長政の軍に加わるという、まさに豊臣ドリーム軍団でした。

僅か5千の九戸政実軍に、勝ち目はありませんでした。九戸城籠城戦の後、九戸方は敗北を受け入れることになります。

降伏時に交わされた、城内の首謀者以外の助命の約束は反故にされ、全員二の丸に押し込められて惨殺され、火をかけられます。

九戸政実ら首謀者達は、総大将豊臣秀次の陣があった栗原郡三迫で処刑されます。(この中に大湯四郎左衛門昌次もいました。)

このような史実があったからこそ、現在でも二戸市民は、九戸方贔屓で、南部・秀吉軍嫌いなのですね。乱平定の後、九戸城は、

蒲生氏郷によって、福岡城と名前を変えて改修され、盛岡に移るまでの間、南部氏宗家の居城になっていました。しかし現在でも、

二戸市民は誰も、福岡城とは呼ばないのですよ。あくまでも九戸城なのですね。(住所表記は福岡なのにねえ、、、)

 

で、この九戸の乱と我が先祖が、どのように関わっているのかと言うと、九戸城引き渡しの際に、我がご先祖である、大湯(奈良)

四郎左衛門昌次は、九戸政実らとともに、首謀者一味として処刑されているのでした。ですから深いつながりがあるのですよ。

豊臣秀吉に逆らった一味ですから、鹿角の奈良氏一族も、当然土地を追われることになった訳ですが、この時奈良氏一族に救いの手を

差し伸べてくれたのが、九戸氏と縁戚関係にあった津軽氏だったのでした。結局、大湯奈良氏の子孫達は、津軽氏に仕官し、鹿角から

逃れることが出来たのでした。 ※鹿角由来記、奧南落穂集より

やはり、九戸城跡の現場で、ボランティアガイドさんから説明を受けると、九戸の乱のリアリティーは、益々強くなったのでした。

※右側の写真は、ボランティアガイドさん(左側)との記念撮影です。

 

 さてここまで九戸の乱を知りますと、当然、我が奈良氏先祖の故地である、鹿角を訪れてみたくなります。と言う訳で我々は、

九戸城跡を後にして、タクシーで二戸駅へと向かい、フリー切符を利用して、鹿角の大湯温泉へと、向かうことにしたのでした。

二戸駅からJR花輪線経由、十和田南駅までの旅程でした。(次回へ)