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いつ果てるとも知れない戦争が続いておりますが、マスコミの戦況報道は、次第に
小さくなって来ております。皆さんの関心の方も、薄れて来ているのですかね?
でも現在の急激な物価上昇も、戦争の影響ですよ。極端な言い方をすれば、物価高を
抑え、賃金が上昇するためには、戦争が終わる(勝利する?)しかないのですよ。
もうそろそろ、お互い疲弊しているので、停戦してはどうか?、と言う議論が出て来
そうです。これ以上の犠牲者を出さないために、と言うこの主張をどう見るか?です。
また平行して欧米は、ウクライナに対する武器供与を遅らせているようです。東部戦線
でウクライナ軍は、敗北を余儀なくされています。ロシア軍は、東部地域を徹底的に
破壊しつくす作戦ですね。ウクライナの痕跡を消し去るためです。一方のウクライナ側
は防戦(人・建物)ですから、破壊・殺戮だけのロシア軍の方が圧倒的に有利な訳です。
これらの状況をどう見るのかです。破壊しつくされた領土を奪還しても、意味はあるのか?と、
私はコレ、欧米とロシアとの、停戦を模索した動きの反映?のように、思えるのですよ。
このような動きが事実だとすれば、ウクライナ国民は当然怒りますわね。今必死で戦っている
自分達と、無関係?なところで、勝手に停戦協議?が行われる様だからです。しかし欧米から、
もう武器は供与しない、と言われれば、ウクライナはもはや戦争を継続することが出来なくなります。
そろそろ妥協した方が良いのでしょうか? 妥協すれば、これ以上の犠牲者は出さずに済みますね?
しかし双方の恨み・憎しみは残りますよね? とすると、今一旦停戦しても、10年後には再び、戦争に
なるのではないでしょうかね? 停戦をする以上は、今後二度と戦争が出来なくなるような仕組みが
両国間に必要なのですが、難しいのでしょうね。本当は戦前の日本のように、完膚なきまでに叩き
のめされれば、もう二度と戦争はするまいと、心に誓うことが出来るのですがね、、、
さて、我が奈良姓の本家筋に当たる、成田氏・箱田氏の歴史(平安末期の熊谷市の風景)については、
前回で終了したハズなんですが、我々一族の発祥の地である熊谷市の、名前の由来については、実は
まだ少し、言いたいことがあるのですよ。市の名前も、鎌倉御家人の名前から来ているから、なんです。
で写真は、JR熊谷駅前に鎮座する、熊谷市のシンボル、熊谷直実公の銅像です。この人物が、熊谷市の
名前の由来になった方なのですね。この方の偉業・名声によって、この地は熊谷に、なった訳なんです。
この熊谷直実、我々の初代ご先祖達と同じ時代、平安末期~鎌倉初期の人物で、鎌倉御家人なのです。
しかし知名度の方は格段に違いまして、平家物語や能・歌舞伎でも、主役級の扱いになっております。
既に当時から、超有名人!だった訳ですね。且つそれで、武蔵国 熊谷郷の出身?と言うのですから、
これはもう熊谷市の名前になるのは、まあ当然ですわね。 とは思うのですが、やはり少し変なのですよ。
またまた、熊谷という地名の、何がおかしいと言うのでしょうか?
いえね、成田氏の時と同じ理由なんですが、熊谷市内に、当時の熊谷の地名が見当たらないのですよ。
熊谷直実の出身地とされる、武蔵国熊谷郷(村)とは、熊谷市内の、一体どこのことなんですかねえ?
え?、熊谷市全体が熊谷ですって?! 平安末期の熊谷郷が、そんな広い村である訳がありません。
では、元々の熊谷という土地の名前が、どこかの時点で消えてしまったのですかね?
市内荒川河川敷に、熊谷の地名が残っています!ですと?、それは河川改修工事後の、新開地名ですよ。
そこでまた、江戸期の新編武蔵風土記稿の、大里郡忍領熊谷町を見てみます。江戸時代から熊谷町!なの
ですね。当時から大きな町であった訳です。そして、熊谷の地名の由来?が、最初に書かれておりまして、
熊谷直実の父親、平直貞が熊谷市内の谷に生息する熊を退治したことにより、熊谷という地名になった!、
とあります。まあ胡散臭い伝説です。平安末期の熊谷市内に、熊が生息していたかどうかは別としても、
熊谷市内には当時も、谷なんて無い訳です。この伝説は、地名の由来ではなく、武家熊谷氏の名前の由来
伝説が、そのまま土地の名前の由来に変わってしまったのでしょう。また熊谷直実が出家後に住んでいたと
伝わる場所は、熊谷寺(ゆうこくじ)として現在もありますが、現在の地名は仲町です。宿場町熊谷町内の
地名ですね。つまり、江戸時代からこの宿場町の名前は、熊谷直実にちなんで、熊谷であった、ということ
なのです。と言うことは、平安末期の宿場町エリア?には、多分、別な地名があったのだろう、と思われる
訳なのです。そうです、熊谷は、地名に由来していないのです。
すなわち、平安末期に熊谷郷は無かった可能性が高いのです。そして熊谷直実は、当時の武士ではありますが、
在地領主ではなかった可能性も、あるのです。だって、支配者平氏側出身の、専業武士?なのですからねえ。
そこで熊谷直実の来歴を見てみます。Wikipediaによりますと、生まれは1141年だそうですが、まあ軍記物の
影響でしょうから定かではありません。いずれにせよ平安末期です。祖父は平盛方、父は平直貞です。つまり
当時の支配者層である平家方です。我々のご先祖達のような、市内の農民あがりの土着武士団層ではありませんね。
そして石橋山の戦いで、源頼朝の御家人になったとありますので、まあ多分この時点で、平家を見限り、伊豆の山中
あたりで、熊谷氏を名乗ったのでしょう。鎌倉北条氏もそうですよね?、元は平氏ですからね。まあ本当に平氏だった
のかは別として、元々支配者層側の武士で、源氏旗揚げの時点で、氏名(うじな)を変えている、と言う点がミソなのです。
支配者層側の武士とは、領地を持つ職業軍人ですが、土地には根付いていません。ですから熊谷直実は、日本各地の戦場で
活躍している訳です。武蔵国熊谷郷出身、となっていますが、熊谷直実以前には、熊谷郷なんて存在しないのですよ。
結局、熊谷の地名とは、熊谷直実の名前にあやかって、後から名付けられた地名である、と言うことが判るのです。
まあ後から付けられたと言っても、中山道・東山道の宿場町、熊谷宿になってから数百年以上は経っている訳ですから、
今更名前を変えろと言っている訳ではありません。熊谷寺や八木橋百貨店のあたりが、熊谷(宿)であった、で良い
のです。そうではなく、熊谷の地名の由来を、もっともらしく創作することはやめて欲しい、と言うことなのですよ。
熊谷の地名は、歴史上のアイドル、熊谷直実にちなんで、熊谷と名付けられましたと、ただそれだけで良いのです。
(次回へ)

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