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箱田から成田へⅡ

 いつもこのブログをご覧いただき、誠にありがとうございます。

 

 日本人がお米を、腹いっぱい食べられるようになったのは、実は終戦後のことです。

米が主食になったのは、確かに江戸時代以降なんですが、あくまでハレの日のごちそう

でした。また80年前の戦時中が、食うや食わずの生活だったことは、もちろん広く知ら

れています。でも実は日本が誕生してからずっと、一般の日本人(農民)は、つい最近

まで、食うや食わずの生活だったのです。普通の人々が、好きなだけ、ごはんが食べられるようになってから、高度経済成長後の僅か60年ぐらいしか経っていません。

ところが現在では、コメ余り、肥満・糖尿病・減量ダイエットです。

我々のご先祖の、2000年に渡るコメ作りの苦労は、一体何だったのでしょうかねえ?

食費が15%上がったのならば、食品購入を15%削減すればいい、それだけのことです。

それだけで日本人は、健康になれます。と言う訳で今回は、成田・箱田氏のまとめです。

 

 前回は、箱田氏の名前の由来のお話しが、途中から北関東の稲作農業の歴史へと、変化してしまい、

誠に申し訳ございませんでした。まあしかし、日本の稲作の歴史を、正しくご理解頂けませんと、

箱田氏の由来にはたどり着けないと思ったものですから、何卒ご勘弁下さい。日本の稲作農業の歴史は、

決して一本道で現在まで繋がっている訳ではないのですよ。その意味で教科書の稲作の歴史解説は、

正しくありません。ですから写真の三郎社?、に至るまでには、様々な紆余曲折の歴史があったのです。

 

 さて奈良時代は743年に、墾田永年私財法が制定されてようやく、熊谷市内の村々にも、新田開発の波が

訪れるようになりました。近隣の我らが奈良村でも、丁度この頃、奈良別の命(の子孫達?)が、新田開発を

行っていますよね? ところが新田開発をしても、それだけじゃさほど収量が伸びないのですよ。つまり

税負担が軽減されないのです。原因は、稲の栽培法、直播き法だったのでした。(雑草、倒伏問題です。)

この問題を解決する最新稲作技術が、その頃、西国よりもたらされました。それが、田植え法の伝来なのでした。

田植え法の伝搬によって、雑草の問題が解決され、成長後の水抜きによって、倒伏の問題も解決されたのでした。

この意味判りますか?(田植え法で、何故雑草が生えないのか?、水があると倒伏稲はどうなる?、等々です。)

 

 え?田植えなんて、弥生時代から広くやっていたのだろう?と、広く宣伝されていますが、実は大間違いですよ。

はっきり言います。教科書で教えられている、日本の稲作の歴史(弥生時代から水田で田植え)は、間違いです。

日本のほとんどの水田は、灌漑用水工事と新田開発事業の発展によって、初めて誕生したのです。平安期以降です。

田植え法は、大規模新田開発が盛んになってから、初めて可能になった、大規模栽培法なのです。まず新田開発は、

灌漑用水工事や土木工事を伴うので、家族単位ぐらいじゃあ出来ないんです。村単位以上、複数の村々が協力し合って

初めて実現可能になるのです。もちろん、大和朝廷の時代から、灌漑用水工事+新田開発は、国家事業!としては

存在しましたよ。しかしその目的が、勧農ではなく、徴税目的であったので、地方にまでは普及しなかったのです。

当時のお米は、食料と言うよりは、お金ですからね。何度も言いますが、当時の主食は、雑穀(ひえ粟キビ)です。

ですからそれまでの水田は、湧水・ため池・小河川流域など、大規模土木工事がなくても水が利用出来る地域だけで

行われていたに過ぎないのです。そして水田栽培が行われていても、何と直播き法だったのですよ。収量は増えない

訳です。ですからその当時のお米は、税金でしたが、人々(埼玉県民)の主食にはなれなかったのです。

 

 で、実は田植え法も、灌漑・新田開発の工事と、労力のかけ方は、まったく同じなんです。まず、本田とは別に

箱田(苗床)を作り、稲籾を蒔いて苗を育て、その間に本田の田起こしをして雑草を除去し、次に用水路から本田に

水を引き、それから本田の代掻き作業をし、代掻きが完了してから、充分育った苗を本田まで運び、村人総出で、

一斉に田植えを行う、という行程で、村民全員が協力しないと、田植え法は出来ないんです。稲刈りだって同様です。

田んぼから水を抜き(落水)、それから稲刈りです。 ですから、新田開発工事と田植え法は、セットなのですよ。

幸い武蔵の国には、貴族の荘園は、さほど多くありませんでした。ですから私は、辺境の地北関東に、広く新田開発の

波が訪れたのは、ようやく平安時代になってから、であろうと考えます。法律だけ出来ても、すぐには普及しません。

熊谷市内での灌漑用水工事、新田開発工事の中で、農作業の分業・協業という、新しい考え方がもたらされました。

荒川用水路(星川)が完成してからまず最初に、苗代を作る村が熊谷市内に現れます。この村は、箱方(箱田)と

呼ばれました。そして星川からの引水により、箱方(箱田)の周辺に、新しい水田(本田)が造成されます。

まずこの本田に水を張る前には、人々は協力し合って、田起こしをし、次に水張り、その後、代掻き作業、を行います。

これらの作業が終わってから、箱方(箱田)から苗取り、苗運びの作業の後、いよいよ一斉に田植えの開始になります。

これらの作業を、近隣全ての村々の水田で、ほぼ同時期に、行わなければならないのです。ですから、全ての村々の全員が、

協力しながらじゃないと、田植えは不可能なのです。だから今でも農村では、田植えの時期には学校が休みになるのですよ。

こうして田植えが終わり、本田に青々と稲が成長して来ると、その田んぼは、ようやく遂に、成田になるのです。

つまり、箱田と成田は、分業のセットなのです。しかし箱田に比べて成田は、そこいら中が成田になりますよね。

周り全部が成田になったので、成田は熊谷市内では、土地の名前にはならなず、別の名前が地名になりました。

だって地名とは、村や田んぼを区別するために付けられているので、成田だと、周り全部が成田になってしまうのですよ。

しかし箱田の方は、地名になりました。箱田の仕事は特殊でしたからね。しかしその後、新田開発の広がりにつれて、

箱田の仕事も、各村々の中で行われるようになります。村内で作業が完結するようになりました。村落共同体の誕生です。

熊谷市内でも、武士団の台頭により、自分達の土地を守るため、姓として自分の土地の名前を名乗る武装農民が現れます。

武蔵武士団の誕生です。熊谷市内の各村々にも、続々と武士団が誕生しますが、その単位は、村(共同体)ごとにです。

武士団箱田氏も誕生しました。多分、箱田三郎の子孫なのでしょう。※写真は、箱田三郎を祀った、三郎社(箱田神社内)

そして更には、箱田一族の中から、箱田と名前を区別をするために、敢えて成田を名乗る者も、現れたのでした。

更にはもちろん、奈良や別府、玉井を名乗る者達も、続々と現れて来ます。これが熊谷市内、平安時代末期の農村風景です。

(この項 完)