いつもこのブログをご覧いただき、誠にありがとうございます。
最近のニュースでウクライナ軍情勢は、マリウポリが陥落して以降、以前ほど
頻繁には登場しなくなって来ているように思えます。戦線が膠着しているから?
なのでしょうかね? それとも悲惨な戦争ニュースの連続に、我々がもう慣れっこ
になって来て、あまり興味を示さなくなったからですかね? つまりコロナの
ニュースと、同じような扱いですかね? しかし少し違った見方も出来るんです。
マスコミにウクライナの戦況ニュースが少なくなったのは、ウクライナや米国が
情報を出さなくなったから、という側面も、あると思われるからなのです。もっと言えば、ロシアも戦勝宣伝をあまり流さなくなっている?、とも思われるのです。
つまり双方、非難の応酬でエスカレートしなくなって来たな、と感じられるのですよ。
実はこれ、もしかして、裏での停戦交渉が進み始めたのかも?、とも考えられるのです。
契機はやはり、アゾフ連隊の投降です。ウクライナ側としては、残された兵士の命を救う、
ロシア側としては、マリウポリでの完全勝利宣言が可能になると言う点で、双方の思惑が
一致したと思われるのです。この一点だけでの合意かも知れないのですが、双方妥協した
のですよ。もしかするとこれを機に、停戦が近づくかも知れませんよ。喜びましょうかね?
まあ私は、だまされていると思いますけどね、だってプーチンは大ウソつきですからねえ。
「今こそ停戦を!」と、叫ぶ方々も出て来そうです。しかし私、これも間違いだと思うんです。
何故ならロシアは「力(ちから)が全て!」が国是です。現在はたまたま?、ウクライナの反撃
により、ロシア軍は弱って来ています。正面から戦って勝てなければ何を考えるか?、なんです。
そうです!、相手を懐柔するのですよ。「もう勝てないから停戦しよう、」とか言うのです。
民主主義国は性善説なので、ロシアの言葉を信用してしまうのですね。そうしてスキを見せると、
突然再び襲いかかって来るのですよ。プロレスの試合で、ヒール(悪役)が、負けそうになると、
ごめんなさいをするんですね。そして隙を見せるといきなり、後ろから襲いかかって来る訳です。
あの典型パターンで、ロシアはこのヒール役と同じなんです。勝つためには何でもするんです。
オリンピックでのドーピング違反を見ても判りますでしょ? ロシアは絶対に止めないんですよ。
ですからロシアが「力の信奉」を諦めるまで、ウクライナは決して妥協をしてはいけないのです。
で、さて今回は、訳の分からない?文章の画像掲示から始まってしまいました。実はこれ、
埼玉県熊谷市立成田小学校 校歌の一番の歌詞なんです。このところ、鎌倉期の奈良氏や
本家筋に当たる成田氏の記録や痕跡について、吾妻鏡と成田氏系図を通じて、調べて来た訳
なんですが、その過程で発見したのが、実はこの校歌なんです。非常に古風な歌詞ですわね?
我々奈良姓の本家筋に当たるのが、成田氏なのですが、東国武士団成田氏もまた、奈良氏と同じく
武蔵の国幡羅郡成田郷(現 熊谷市上之)の発祥と言われております。行田市の忍ではありません。
奈良氏と同族ですから、我々奈良村(現 熊谷市奈良)も、別府氏、玉井氏、箱田氏等の各領地も、
同じ親戚一族ですから、全て熊谷市内のすぐ近所同士なのでした。熊谷市は、鎌倉時代の領地名が、
何と現在までも、そのまま住所表記として残っている点が、すごいのですよ。
で、成田氏はご承知の通り、戦国期の忍城主の成田氏(のぼうの城)が有名です。こちらの成田氏の
本拠地は、行田市の忍です、城もあります。ですから武家成田氏の本拠地は、忍の方が有名なのです。
室町期から戦国期にかけての忍領主成田氏と、鎌倉期の成田氏は、後代の成田氏系図によって、同一
の系統だとされてはいるんですが、系統が安保氏系に変わった?とするのが、最近の説のようですわね。
つまり、今まで見て来た鎌倉期の成田氏と、室町期からの成田氏は、近いのだけれど違うと言うことです。
で、成田郷=熊谷市上之と、忍=行田市の間は、直線距離で6Kmぐらいですから、現代の感覚で言えば
すぐ近所なんですが、鎌倉期においては、明らかに他領域なのです。まあ現在でも、熊谷市と行田市では
市が違いますからね。で、平安末期に発祥した熊谷市上之の成田氏は、室町期に入ると、行田市忍へと
領地を移転?していることになっているのですが、そのあたりの経緯は、残念ながら不明のままなのです。
果たして誰のどの時点で、成田氏の系統が変わり、その時何が行われたのか?が、今回のテーマになります。
そこで冒頭に紹介した成田小学校の校歌なんです。う~ん実際、意味が良く判らない歌詞ですわね?、
でもこれ、本当に現在の成田小学校の校歌なんですよ。「うぶすな」って判りますかね?
これ郷土とか郷土の神様という意味の古語です。つまり、「長い歴史を有している成田の地よ」かな?
で、問題はその次、「御祖五郎の 遺徳をしのび」なんです。⇒ 御祖五郎って誰?、な訳です。
熊谷市立成田小学校のホームページによりますと、御祖五郎とは、成田五郎家時公のことなのだそうです。
成田五郎家時とは、成田氏第12代当主で、菩提寺の龍淵寺を創建したり、上之村雷電神社を再建した
偉い人なのだそうです。また、5代後には、のぼうの城で有名な忍城主、成田氏長とも繋がっています。
ですから成田五郎家時は、御祖と呼ぶにふさわしい人物なのだそうです。ああそれで、成田小学校の
校歌にもなっているのですね? すごいと思いますよ。800年も昔の成田氏の痕跡が、成田(上之)の
地にある成田小学校に、校歌!という形で現代まで、しっかり残っていたのですからねえ。
ちなみにその次、画工 晴湖とは、奥原晴湖のことなのだそうですが、実はあまりよく存じませんです。
と言う訳で一件落着!、としたいところなのですが、私、どうも解せないのですよ。何かおかしいのです。
何がおかしいと言うのでしょうか? それは、成田氏の年代と土地が、どうも微妙に合わないからなんです。
成田氏は、平安末期に登場した、数ある東国武士団のひとつです。初代は成田大夫助隆、領地は幡羅郡成田郷
(現 熊谷市上之)と、ここまでは皆一致しています。まあ始まりが藤原氏(貴族)か、武蔵七党か?と言う
どうでもいい?論争はありますけど、、 で、歴史文献上の初出は、保元物語の成田太郎です。
年代で言うと1150年代です。この成田太郎が、成田助隆本人でも子供の助広であっても、大差はありません。
いずれにせよ1150年代は、成田氏系図の奈良氏初代の奈良三郎や、別府二郎、玉井四郎等と同時代なのです。
でこの30年後には次の世代になり、源頼朝の鎌倉時代に突入します。この時代からは、吾妻鏡の記録により
はっきりした年代で、奥州征伐や凱旋上京、承久の乱などで、成田氏、別府氏、奈良氏、玉井氏の一族の
名前が見えます。そして吾妻鏡の最後、1250年代に、助隆から数えて5代後の成田氏、別府氏、玉井氏一族の
記録が残されているのです。しかしその後、鎌倉幕府滅亡⇒南北朝動乱により、鎌倉期の成田氏一族についての
その後の記録は、ぱったりと見られなくなります。成田氏の衰退期とも言われています。
で、8代成田五郎家時とは、室町期初期(1400年代)の人です。つまり、8代まで残り3代で150年経過などとは、
実際考えられないのですよ。当時の一代は、平均20~25年だからです。70年ぐらい、時代が合わないのです。
またこの成田五郎家時は、忍(行田市)の領主です。上之(熊谷市)領主の成田氏と、関係があるのでしょうか?
更に、12代成田五郎家時が、何故御祖なのでしょうか? 御祖と言うことであれば、初代ではないのですかね?
それとも成田氏系図が間違っているのか? これは何か、からくりがあるハズなのです。(次回へ)

コメントをお書きください