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先日フィリピンで、マルコス大統領が誕生しましたね。何故か昔の風景を見ているような気がします。また独裁政権が始まる
のですかねえ? 新しいマルコス大統領夫人も、靴を集めるのが趣味なのかなあ?、、 いかに民主的制度で選挙をしようとも、
国民自身に民主主義を守ろうとする意識・決意が無ければ、多数決で簡単に、独裁政治に戻すことが出来るのですよ。
ソ連は崩壊して僅か30年で、民主的制度プロセスを経て、現在のプーチンロシアになりました。結局、ロシア国民自身が、今の
ロシアを作ったのだと、言わざるを得ません。独裁政権は、民主的制度+国民の意識から誕生するのです。民主主義は、実は維持
するのに多大な努力・労力を必要とします。様々な勉強、他との交渉や、手続きが必要だったりします。つまり面倒臭いんですよ。
人々は、日々の生活を維持するのに手いっぱいなのに加えて、民主主義を維持するためにも、労力を使わねばならない訳です。
ですから生活に余裕のない国の国民は、誰かに全面委任して、楽をしようとするのです。これが独裁の始まりです。自分は忙しい
から、と言う理由で、政治に参加する権利・義務を放棄してしまうんです。このような国民が多数派になると、独裁国家になり得
ます。日本も例外ではありませんよ。政治的無関心が過半数を超えて、トランプのような「俺に全て任せておけ!」的な政治家が
現れれば、日本だって簡単に独裁国家になれるんです。国民は、独裁者に従ってさえいれば、自分達は楽が出来ますからね。
生活が苦しいのですよ。そして余裕がないんです。このような国々が世界の半数以上を占めているんです。ロシアに反対する国が
先進諸国だけ、という国連の厳しい現実は、実はこのような理由によるのです。ロシアの侵攻に賛成している訳じゃあないんです。
生活が厳しいので、反対する余裕がないだけなんです。しかしこのような国々は、いつでも独裁国家になる可能性があります。
マルコス大統領のフィリピンが、独裁国家になるかどうかは、フィリピン国民の生活が豊かになるかどうかにかかっていますよ。
豊かになれば、民主主義は維持されるでしょう。厳しい状況が続けば、コラソン・アキノの登場を待つしかありません、、、。
前回は、鎌倉期の奈良氏や成田氏一族の足跡を求めて、元寇まで探ってみたのですが、吾妻鏡も断絶していて、残念ながら
名前を発見することは出来なかったのでした。そこで今回は、少し時間を戻して、吾妻鏡のなかで、いつ頃まで、奈良氏や
成田氏一族の名前が登場しているのか?を、色々探ってみましたところ、興味深い結果を得たのでした。
で掲示写真左は、1250年(建長2年)3月の吾妻鏡なのですが、京都の里内裏、閑院殿の再建造営の分担者リストです。まあ
吾妻鏡ですから、やっぱり事務的査定表なんですね。しかしこういう場面でしか、我々一族の名前は出て来ないのですよね。
前回名前の出て来た承久の乱(1221年)から、29年が経過しています。ですから当然、今回の登場人物は、前回登場人物の
次の世代に、代替わりしているハズなのです。そこで掲示写真を左から見てみます。まずは、二条通りに面して西洞院東側
までの築地20本の分担者の内訳ですが「成田入道跡 2本」とあります。跡とは跡継ぎの意味です。この分担者リストの表記は、
最後が「跡」ばかりの名前が続いていますね。この理由は、この頃鎌倉番役の制度が、既に形骸化していたからであろうと、
私は考えるのです。本来関東の鎌倉御家人は、交代で幕府に出仕する義務があった(御家人の幕府)のですが、北条氏の幕府
体制が確立すると、鎌倉詰めの有力御家人以外の小御家人は、鎌倉に出仕する必要がなくなっていった、と推察されるのです。
ですから、幕府は、現在の御家人当主の名前が判らないのですよ。昔は皆知り合い同士なので、奈良の五郎とか成田の七郎とか、
呼称で呼び合っていましたからねえ。もしかするとこの風習が、日本の姓名(名字+名)の起源なのかも知れませんよ。
ですから初期の御家人達は皆、鎌倉に詰めていたのですよ。いつ攻め滅ばされるか判らない、不安定政権だったからです。
それが承久の乱を経て、安定政権になったので、御家人が常時詰めて、鎌倉を守っている必要が無くなったのでした。
それでこの時の幕府は御家人達を、過去の記録で判明している昔の名前の「跡つぎ」として、寄進者名を記録したのです。
つまりそれは、鎌倉御家人制度の空洞化だった訳です。
さて名前の出た成田入道跡、出家して成田入道になった人物とは、成田資泰であろうと考えます。承久の乱の時の記録でも、
成田(五郎)家資、資泰(藤次)の兄弟は登場していましたよね。で、その成田入道の跡継ぎとなれば、右写真の成田氏系図
より、成田忠綱であろうと考えられるのです。で更に、写真左端には「玉井左衛門跡 2本」 の記載があります。成田氏系図では
途切れてしまっていますが、この人物は初代玉井四郎のひ孫に当たる人物であろうと思われます。ちなみに、「左衛門」も、
昔の官職名で、退役軍人を表す呼称です。従って玉井左衛門跡とは、「引退した玉井さんの跡継ぎ」という意味になります。
つまり本当の名前じゃあない、幕府は玉井氏現当主の、本当の名前を知らないのですよ。会ったことが無いからですわね。
そして同様に、真ん中の写真では左端に、「別府左衛門 1本」の記載も見えるのでした。
この別府左衛門は、成田氏系図より、別府行宗であろうと思われます。玉井氏と同じ左衛門名も、同じく仮名(けみょう)です。
要はこの時の幕府は、玉井氏も別府氏も、姓(領地名)は判るけれど、会ったこともないので、名前は知らないのですよ。
だから左衛門なんです。しかしそれでもこの時点では、成田氏も玉井氏も別府氏も、ちゃんと造営分担をしているのですから、
鎌倉御家人としては一応健在であった、という事実が、記録から判るのです。
ところがなのです、どこを探しても、奈良氏の名前だけが無いのですよ。どういうことなのでしょうか? 前回承久の乱で
登場した、奈良五郎助綱の代で奈良氏一族は断絶してしまったのでしょうか? そんなことはありませんよ。だって子孫の
私、21世紀の現在まで、生きていますからね。でも成田氏系図を見てみると、奈良五郎助綱の跡は、書かれていないのですね。
さて、吾妻鏡の寄進者リストに名前が無く、成田氏系図にも子孫の名前が無い状況なのですが、どのように考えれば良い
のでしょうか? そこで私は、幡羅郡の奈良村を本貫地とする在地武士団奈良氏の本家は、何が原因だったかは判りませんが、
この頃に衰退したと考えます。つまり幕府への役分担することが出来なくなった、ということです。あくまで奈良氏本家ですよ、
分家・庶流は、各地でしぶとく生き残ったのです。後代の戦国大名成田氏の家臣名には、奈良氏の名前も見えますし、何より
奥州鹿角に渡った奈良氏の庶流は、鹿角四頭として、戦国末期まで、鹿角の小領主として生き延びていましたし、足利氏庶流
である細川氏に付き従って西国に渡った奈良氏庶流は、細川京兆家の四天王と呼ばれるまでに発展することになるのです。
ですから、決して滅亡した訳ではないのですが、鎌倉幕府の表舞台からは、この頃消えていったのだろうと、推測されるのです。
どおりで現在の熊谷市内には、成田氏や別所氏、玉井氏の痕跡はたくさんあるのに、奈良氏の痕跡だけがほとんど残っていない
理由が、判った様な気がします。武蔵国幡羅郡奈良村の奈良氏本家は、鎌倉期の中期には、既に衰退していたのですね、、。
ちなみに、このように多数の御家人達から寄進させた京都の里内裏 閑院殿ですが、9年後の1259年(元正元年)には、残念
ながら、再び焼失してしまったのでした。(※現在は、閑院殿跡の看板しかありません。) (次回へ)




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