その後の鎌倉期、奈良氏一族の痕跡は?

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。

 月が替わっても、ウクライナ戦争は一向に収束する気配は見えません。益々

泥沼化するばかりです。何故なのか?、です。理由は簡単です、欧米に収束させる気が無いから?なんです。プーチンやウクライナ国民は、不退転の決意で

必死に戦っているのに、欧米は、中途半端にしか参戦していないように見える

からなんです。まあロシアの核の脅しに対する配慮?なんでしょうけどね。

実際は、参戦はしていない?と言うことになっていますからねえ、、しかし

敢えて言えば、欧米は、勝敗が付かないように調整しながら参戦しているの

です。ロシアと直接対峙するのが怖いからですか?、腰が引けているのです。

しかし既に第三次世界大戦は始まっているのですよ。もはや世界は、昔に後戻りすることはないのです。戦争が終われば、元の世界に戻れる?などという

幻想はあり得ないのです。仮にコロナが収まっても、元のマスク無し生活には

戻れないのですよ。しかし欧米は、まだそこに、しがみついているのですね。

プーチンと違い、肝が据わっていないのです。もはや新しい世界を切り拓く

しかないのですよ。このままでは、実力はありながら、結局ちゃんと戦わず

して、滅びてしまった「平家」と同じ運命を辿ることになるのですよ、、、。

 

 と言う訳で前回まで、鎌倉幕府創成期の奈良姓や成田姓一族の活躍・痕跡を、吾妻鏡の記録の中から、

承久の乱まで掘り起こしてみた訳なのですが、その後の大乱ではどうか?と言うと、鎌倉期の次の

大合戦は、有名な元寇になります。二度の蒙古襲来(文永の役ː1274年と弘安の役ː1281年)ですわね。

有力御家人ではない、奈良氏や成田氏一族は、大きな合戦でもないと、歴史に登場する機会は無いのですよ。

※何せ番役などの無い平時には、鎌倉御家人と言えども、領地内では、ただの農民なんですからねえ。

でも吾妻鏡だと、元寇のような大きな合戦があれば、恩賞のためにしっかり査定記録を録るハズですよね?

さて鎌倉期日本の、存亡をかけたこの大戦で、奈良姓や成田氏一族の活躍の記録はあったのでしょうかね?

ところがなんです、肝心の吾妻鏡の方が、元寇のはるか以前の1266年(文永3年)で、何と途絶してしまって

いるのでした。つまり鎌倉幕府の公式記録である吾妻鏡には、残念ながら蒙古襲来の記録が無いのですわ。

更にまた、蒙古襲来が、鎌倉から遠く離れた北部九州での合戦であったため、鎌倉御家人である東国武士団の

出番も無かったようなのです。日本に攻めて来た元・高麗軍と必死で戦ったのは、ほとんどが少弐氏、大友氏を

始めとする九州の武士団でした。東国武士団で参陣したのは、九州にも所領のあった千葉氏ぐらいのものなのです。

まあ当時の博多と鎌倉の連絡は、早飛脚で12日もかかったそうですから、とてつもない遠距離だったのですね。

更に当時の御家人の戦支度は全て自前ですから、自前で馬や武具、従者も揃えて、遠い九州まで遠征することなど、

中小の関東武士団にとっては、財政的にも土台、無理な話しであったのでした。

ですから九州の武士団は、鎌倉幕府からの援軍・指揮もなく、未知の蒙古軍と戦わねばならなかったのでした。

まあ幸いなことに、神風?!が吹きまして、蒙古軍は撃退された訳なんですが、結局歴史(軍記物等)に名前が

残ったのは、蒙古襲来絵詞で一躍有名になった、肥後の御家人 竹崎季長ぐらいだったのでした。竹崎季長は、

恩賞を得ようと鎌倉幕府に談判したり、蒙古襲来絵詞を描かせたりと、派手に自己アピールしていますからねえ。

と言う訳で、元寇の場面では、奈良姓や成田氏一族の活躍の記録等は、残念ながら無かったのでした。

元寇の後、鎌倉幕府は弱体化し、恩賞が無い御家人達は困窮するようになり、鎌倉幕府滅亡に繋がって行きます。

従って、これ以降の鎌倉期における奈良姓や成田氏一族に関する記録史料は、見られなくなるのでした。

 

 で今回の掲示写真は、熊谷市上奈良地区にある妙音寺です。奈良姓の記録が無いのであれば、奈良姓の痕跡では

いかがでしょうかね? 以前もご紹介しましたが、奈良姓初代、奈良三郎高長の墓がある寺院ですよね。

※奈良三郎の墓の写真は、私のFacebookページにも載せております。この墓は、鎌倉期の奈良氏の、立派な痕跡

だと思いますよ。 え?、でもその墓石、しょせんは江戸期建立のニセ墓だろう?、ですって?! 

まあ墓石自体はそうなんですけれどね、実は墓の存在する妙音寺の敷地自体が、武士団奈良氏の痕跡なのですよ。

「新編武蔵風土記稿」によりますと、この妙音寺は、江戸期以前は、奈良三郎が開山した西ノ坊という寺院で、

奈良三郎の居館もあった、との伝承なのですよ。ですから江戸期の奈良村村民外記は、この寺に奈良三郎の墓を

再建したのでした。と言う訳で、写真の妙音寺は、鎌倉期奈良氏一族の、立派な痕跡として認められるのです。

え?「新編武蔵風土記稿」なんて怪しい!ですって?、「新編武蔵風土記稿」とは、江戸時代の文化・文政期に、

昌平坂学問所(後の東京大学)の地理局が調査・編纂をした、武蔵国についての学術文書なんですけどねえ、、、

 

さてそれでは、このような初期奈良姓、成田氏一族に関する痕跡は、他にもあるのでしょうかね?(次回へ)