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奈良姓が初めて知られたのは?Ⅴ

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。 ロシアによる核戦争の脅しが、活発になって来ていますね。

いよいよ第三次世界大戦が本格化しそうですが、怖いですかね? しかしロシアの脅し方を見ると、逆にロシアの心理状況が

良く判るのですよ。脅し言葉には、自分が言われると困る同じことを、相手に投げつける、と言う側面があります。つまり、

脅す人間は、攻撃相手がどうすれば嫌がる・怖がるか?を、自分の身になって推測するからなんです。こうすれば相手は恐れる

だろうという考えの中には、自分もやられたら恐れる、という心理が包含されているのです。ですから、脅しに怯えてしまっては

いけないのです。毅然として「攻撃されれば反撃する。」と応えれば良いのです。ロシアだけでなく、北朝鮮や中国に対しても

同様なのですが、「世界は、核の脅しには屈しない。」という強い姿勢を取ることが大事なのです。核の脅しが効かないのだと

判れば、彼らは脅しの手段を失うことになります。暴力団対策と同じです。 でも、怖いですか?、実は相手も怖いんですよ。

この恐怖心を克服しているのが、ウクライナ国民です。ロシアの暴力は、誰しも恐ろしいのですが、その恐怖心を認めた上で、

ウクライナ国民は、何故か毅然としているのです。毅然とロシアに立ち向かっているのです。どうしてそれが可能なのか?です。

子供達のため、両親のため、隣人のため、友のため、ウクライナ国民のため、世界のため、自分の死を恐れないからなのです、、、

 

 で本題に戻り、このところは、まともに?奈良姓の歴史について、書かせて頂いております。 写真は、鎌倉幕府公式文書である

吾妻鏡です。掲示写真が2枚とは、少し力が入っておりますねえ。と申しますのも、奈良姓や成田氏一族の名前が、何度も登場

しているからなのです。どちらも鎌倉幕府の公式記録書である吾妻鏡の、承久三年(1221年)六月十八日の条です。

前々回の奥州合戦での記録は、1189年でしたから、あれから22年も経っている訳なんですね。当時の平均寿命は、50代

ですから、奥州合戦時の登場人物から一世代、次の世代へと代わっている、と見た方がいいでしょう。

で、こちらは北条政子の大演説で有名な承久の乱です。北条政子と義時の姉弟は、この時まだ生きていたんですねえ。

頼朝亡き後の鎌倉幕府を率いる二代執権北条義時の嫡男である北条泰時が率いる鎌倉幕府軍が、後鳥羽上皇の朝廷軍を

打ち破った承久の乱なのですが、その最大の合戦である宇治川合戦から、わずか4日後の記述なんです。

(※源義経が木曽義仲を打ち破った、平家物語で有名な宇治川合戦の方とは別ですよ。)

で、その内容は、何とこの合戦での戦功の査定記録なのですよ。この査定記録に、奈良姓や成田氏一族の名前が、たくさん

出て来るのです。

 で、この時の宇治川合戦を戦ったのは、総大将北条泰時(執権北条義時の嫡男)が武蔵守だったので、数多くの

武蔵武士団が、この合戦に参陣していました。ですから奈良姓や成田氏一族の名前が多数登場している訳なのです。

それではまず、左の掲示写真から見て行きましょう。吾妻鏡(鎌倉幕府の公式記録)1221年承久三年六月十八日の条で、

右頁のタイトルで、「六月十四日の宇治川合戦で敵を討ち取った人々、」とありますね。 

 そこで我らが奈良氏や成田氏一族の名前なのですが、最初に、左掲載写真の右ページの、奈良五郎(一人)から

始まります。名前の下の小さい数字は、査定ですから業績=敵を倒した人数ですね。何と奈良姓が、始めの方で記載されて

いるんですねえ。この奈良五郎ですが、前回の奥州合戦の時の記述で、奈良高家・有助兄弟が登場していますので、

世代を考えますと、奈良高家の子 奈良助綱であろうと思われるのです。(※成田氏系図より推定。)

初代奈良五郎=奈良高家は、奥州合戦で勲功を挙げていますから、二代目も奈良五郎なんでしょうね。(歌舞伎役者か?)

他の人々の名前を見ても、ほとんどが四郎、五郎、六郎などですね。まあこの当時の名前は、身内内での愛称(呼称)

なのでしょうね。その意味でNHK大河の中で、北条義時(小栗旬)を、正式な名前ではなく、江間の小四郎と呼んでいる

ことは正しいのです。(江間が所領の、若い四郎=四男坊さん、という意味ですな。)

 

 次に右掲載写真ですが、成田五郎(一人)から始まり、同じく成田藤次(一人)、奈良兵衛尉(山法師=僧兵一人)、

別府次郎太郎(一人)、また最初の行に、玉井四郎の名前もあるのですが、伊予とありますので、我が一族の玉井氏

であるのか?どうかは不明です。(ご自身でもご確認下さい。)また、兵衛尉とあるのは、武士の官職(階級)名です。

京都に上った経験のある武士は、多分皆誰にでも、この官職名が与えられたのでしょうね。この頁でも多数登場しますよ。

で、奈良兵衛尉のことですが、以前に上洛したことがある奈良姓とは、奥州合戦後の源頼朝の凱旋パレードに参加した、

奈良五郎、奈良彌五郎兄弟しかいないのですよ。(前々回ブログをご参照。)私は、奈良彌五郎=奈良有助の方だろうと

思っています。二代目奈良五郎の方が、奈良兵衛尉より、記載順位が上位に来ていますからね。

また、成田五郎、成田藤次についてですが、成田氏系図より、奥州合戦の成田七郎助綱の子=成田家資と資藤、だろうと

思われます。名前に藤が付いていますからね、特定し易いのです。※別府氏・玉井氏の人名特定については割愛します。

更に次の項には、この合戦で討ち死にした武士の名前が、記載されているのですが、成田兵衛尉、成田五郎太郎、

玉井兵衛太郎の名前が見えます。 こちらにも恩賞があるのかな? この成田兵衛尉は、成田七郎助綱のことでしょうし、

成田五郎太郎は、成田家資の長男であろうと思われます。老・壮・青、成田氏は一家総出で参陣していたのですねえ、、、

また、鹿角四頭、安保氏の始祖とされる安保刑部氶(實光)はこの時、宇治川渡岸に失敗して溺死したようですね。

 

という史実から、承久の乱でも奈良氏や成田氏一族は、間違いなく鎌倉幕府御家人として、立派に働いていたことが

判るのです。ただ逆に、軍記物ではなく、このような幕府査定記録でしか名前が出て来ないということは、

奈良氏や成田氏一族が、幕府の中では、いかに地味な目立たない存在であったか!が、逆に良く判るのでした。

まあ琵琶法師の語りや、軍記物に登場するようなスター性は、全然無かった訳ですね。

しかしそれでも、奥州合戦や、承久の乱でのこれら地味な活躍・実績により、奈良氏や成田氏一族は、間違いなく実際に、

奥州鹿角の地に領地を得たり、承久の乱後に三河守護になった足利義氏より所領を得て三河国細川郷に移った足利氏庶流、

細川氏初代次郎義季と共に、付き従った御家人奈良氏の子孫が、後に讃岐で、奈良元安として大きくなったりしたのですよ。

(次回へ)