いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。毎度嘘ばかりの
ロシア政府発表を、真面目にニュースで流すのはいかがなものでしょうかね?
視聴者が混乱するだけだと思うのです。もしニュースで流すのであれば、お笑いフェイクニュースのコーナーを別に設けて、そこで流すのが良いと思いますよ。
あと、日露のサケ・マス交渉が妥結した、とのニュースですが、日本のEEZ内で
漁をするのに、どうしてロシアに3億円も払わにゃいかんのでしょうかね??
で最近はまっとうに、本来の奈良姓の歴史について書かせて頂いております。
そして現在ブームになっている、NHK大河ドラマ鎌倉殿の時代が舞台です。
そこで、前回の奥州合戦に続き、源頼朝の死後、承久三年(1221年)に起きた
承久の乱での、吾妻鏡の記録について見て参ります。この戦いに勝ったのは、
北条政子、北条義時の鎌倉幕府軍、負けたのは、後鳥羽上皇らの朝廷軍でした。
まず今回掲載図は、80年ぶりに京都で再発見された、承久記絵巻(宇治川合戦の図)
なのですが、承久3年(1221年)6月13日~14日の合戦の方です。
図は、宇治川を挟んで、左後鳥羽朝廷軍と、右鎌倉幕府軍が、にらみ合っていますね。
世間的に宇治川合戦は、源平合戦(平家物語)での源義経と木曽義仲の宇治川合戦の方が
有名なんですが、鎌倉幕府が、坂東の一地方政権から、全国統一政権を確立して行くための
承久の乱での、画期となる宇治川合戦は、鎌倉幕府体制にとって、非常に重要な合戦だったのです。
また東から京都を攻める場合には、当時は必ず、宇治川・宇治橋を渡らねばならなかったんですね。
で、今回の宇治川合戦での鎌倉側の総大将は、第三代執権となる北条泰時(武蔵の守)でした。
北条義時(NHK大河で言えば、小栗旬)の長男(八重の子供)ですね。この戦いで鎌倉幕府軍は、
後鳥羽上皇の朝廷軍を打ち破り、京に攻め上るのですが、後鳥羽朝廷側は、この敗北によって、
東国だけでなく、西国での支配権も失ってしまい、鎌倉幕府は遂に全国統一政権となりまして、
朝廷貴族の世(平安時代)が終わり、本当の武士の世(鎌倉時代)が、遂に始まったのでした。
でも多くの人は今でも、1192作ろう鎌倉幕府で?全国支配が確立した、と思っているんですよね?
さて吾妻鏡での記載の内容は?と言うと、6月14日の宇治川合戦での、戦功の記録なのです。
(※6月13日は、両岸でのにらみ合いが続いたため、本格的な戦闘は起きていません。)
つまり恩賞のための実績(査定)記録ですね。琵琶法師の語りとは違い、まあ事務的なんです。
鎌倉御家人の氏名と、倒した敵の人数(戦功)が記載されているだけです。でもすごいと思うのは、
この記録が書かれたのが、合戦の4日後の6月18日であった、と言う点なのですよ。(ウクライナ
でも、ロシア軍が撤退してすぐに、被害記録の収集が行われましたよね。これ大事なんです。)
前回の奥州合戦でも頼朝は、奥州平定後すぐに、各武士の戦功に対し恩賞の下知を与えていますよね。
このように、すぐに戦功を確認し、恩賞結果が出ることは、御家人達にとっても、大事なことでした。
何故なら時間が経つと、多くの武士は、恩賞欲しさに自分の戦功を誇大アピールするからなんですね。
当時の戦は、実はまだ組織的戦術など無いため、総大将でも、戦の全体像を把握していなかったのですよ。
また当時の戦争は、飛び入り歓迎の戦が普通でしたから、当日誰が戦っていたのか?も、正確なところは
良く判らない状況だったのです。
とすれば、参陣した御家人一人一人の戦功なんて、本当は本人以外、実は誰も判らないのですよ。
ですから、戦の興奮冷めやらぬ間に、速やかに個人個人の実績記録・査定を行ったのですね。
吾妻鏡には、全部で100人ぐらいの武士の実績が書かれていて、従者を含めた総数も記載されています。
軍記物などでは、この時鎌倉方19万騎!(ロシア軍か?)とか言われていますが、実際はそんなにいません。
でも逆にホント、吾妻鏡は事務的記述なんですよね。ですから軍記物と違って、全然わくわくしないんですわ。
しかし鎌倉幕府では、このような厳正な記録によって、それぞれ御家人一族の恩賞が決定されたのですから、
幕府の最高官吏である大江広元は、ある意味事務方の鑑(かがみ)と言っても良いのですよ。
さてそれでは、「吾妻鏡」の記録の中で、具体的にどのような場面で、奈良氏や成田氏の一族の名前が登場し、
活躍している?、のでしょうかね?(それは次回へ)

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