いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。戦争は、遠い欧州での話し、だと思っていたのですが、
ウクライナに続いて日本海周辺も、にわかにきな臭い状況になって来ました。こちらでも戦争が始まるのでしょうかね?
既に始まっている第三次世界大戦は、民主主義VS専制主義の戦いとして、未来の歴史に刻まれそうです、、、。
で最近はまっとうに、本来の奈良姓の歴史について書かせて頂いております。更に現在ブームになっている、NHK大河ドラマの
鎌倉時代が舞台です。さて前回は、奈良姓や成田氏一族の名前が初めて登場した保元物語に続き、どのような演目や書物に登場して
いるのか調べてみましたが、残念ながら平治物語にも平家物語にも承久記にも、奈良氏や成田氏一族の登場は無かったのでした。
ところが何と、鎌倉幕府の公式記録文書である「吾妻鏡」の中では、何度か奈良姓を含む成田氏一族の名が登場しているらしい?、
というお話しでした。そこで吾妻鏡を調べてみます。
それではまず最初に、源頼朝軍が源義経や奥州藤原氏を滅ぼした、奥州合戦(奥州征伐)での記述から見て参りましょう。
吾妻鏡は、日記形式で、鎌倉幕府内の日々の動きを記録しているのですが、文治5年(1189年)7月18日の条で、鎌倉を出陣する
奥州藤原氏追討の軍勢紹介の中で、成田七郎助綱、阿保次郎實光の名前が、初めて登場しています。(左側の写真、左頁です。)
成田七郎助綱とは、成田氏初代、成田助高の孫で、保元物語に登場した成田太郎の子供に当たります。私はこの時の参陣は、
成田七郎助綱だけではなく、初代奈良三郎の子供らも、間違いなく、一族として一緒に参陣していたハズだと確信しています。
その理由については後述します。成田七郎助綱は、成田太郎助広の子供ですから、奈良三郎の甥に当たりますわね。
一方、阿保次郎實光の方は、安保氏初代の安保實光であると思われます。え?阿保??、実は貴族の姓である阿保氏の姓を、
詐称していたのですよ。まあ成田氏・奈良氏も同様に、藤原氏姓を名乗っていますからねえ、、、(成田氏系図より)
悲しいかな東国の田舎武士団としては、やはり貴族系の武士団の系統を名乗りたいのですよ。
また、成田七郎と阿保次郎の記載間隔が離れていますので、この記録時点では、縁戚一族ではなかったことが窺えますね。
そして奥州合戦勝利直後の、文治5年9月20日の条には、勲功を確認し、恩賞の下文を与えた、との記録がありますので、
この時、成田氏・奈良氏一族と阿保(安保)氏に、恩賞として鹿角の領地が与えられたのだと考えると、鹿角由来記にある
鹿角四頭記述との整合性が取れるのですよ。ですから私はこの時、成田七郎助綱だけではなく、いとこの奈良三郎の子供らも、
一緒に参陣していたハズである、と考えたのです。ですから一緒に恩賞を得ているのですよ。
更にその証拠で、何と頼朝凱旋入洛行列の記録では、後塵の髄兵として、三十八番に成田七郎(助綱)、三十九番に別府太郎、
奈良五郎、奈良彌五郎、四十番に玉井太郎、四十一番に玉井四郎の名前があるのですよ!(右側写真をご参照下さい。)
成田氏系図によれば、奈良五郎とは、奈良三郎の子である奈良高家、奈良彌五郎とは、兄弟の有助であろうと思われます。
どうですか?、つまり奈良姓を含む成田氏一族全てが、遠い京都で、奥州合戦勝利の凱旋行進をしているのですよ!!
(吾妻鏡 翌建久元年 1190年11月7日の条です。)
と言う訳で、奈良氏を含む成田氏一族が、鎌倉御家人として、奥州合戦に参陣していた史実が、遂に証明されたのでした。
さて次には所領を得た鹿角四頭(成田氏、奈良氏、安保氏、秋元氏)の側から、この時点での各氏族を考えてみますと、
成田氏と奈良氏はもちろん親類なのですが、同僚御家人の安保氏の方はまだ縁戚ではなかった可能性があります。
その後成田氏と安保氏は縁戚関係となり、更に鎌倉幕府滅亡後の室町期には、成田氏本家の系統は安保氏系へと変わって
行きました。(乗っ取りか?)
また、もう一人の鹿角四頭、秋元氏については、元々宇都宮氏系であり、今回の奥州合戦に参陣した宇都宮頼綱の子が、
秋元氏の祖と言われています。ですから後になってから、秋元氏を名乗ったのであろうと考えられます。
ですから鹿角の恩賞を得た時点では、秋元氏ではなく、宇都宮氏であったのかな?、と考えております。
と、このように考えますと、吾妻鏡における奥州合戦での記録と、その後の鹿角由来記での、鹿角四頭についての記述が、
実にうまく合致して来るのです。
ところで、現在の東北地方には、奈良姓や成田姓に限らず、数多くの鎌倉御家人姓の人々が、名字多数派を占めています。
この理由は、鹿角四頭だけではなく、数多くの鎌倉御家人達が、奥州合戦の恩賞として、東北地方に領地(地頭職)を獲得し、
一部が移住したから、なのだろうと思われます。同様の事例は、承久の乱後の西国地域においても見られるのです。
あと、奥州合戦の記録とは関係ありませんが、吾妻鏡 建久三年 1192年8月14日の条には、鶴岡八幡宮の放生会に行う
奉納相撲の取り組みが決められ、取り組みの トップバッターに、奈良藤次 対 荒次郎の取り組みが記載されています。
奈良姓記載の例ですが、⇒まあ正直、小物扱いですなあ、、、まあどうでもいい話なんですが、、、
と言う訳で、少なくとも頼朝の治世時においては、奈良氏、成田氏一族は、鎌倉幕府御家人として、しっかりと活躍していた
ことが、吾妻鏡の記録から、間違いなく証明されたのでした。
※ところがですね、Wikipediaの鎌倉幕府御家人リストには、奈良氏も成田氏の名前も、全然無いのですよ!! 何故??
さて続いては、承久三年(1221年)に起きた承久の乱の方なのですが、吾妻鏡では、承久の乱最大の戦いであった
6月13日~14日の宇治川合戦の記録の中に、一族の名前が、また多数登場しているのですよ。(それは次回に。)



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