奈良姓が初めて世間に知られたのは?

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。このところ、怒りに任せての、ロシアのウクライナ侵攻へのコメントばかりが続いており、何のブログか判らな

い?!、という状況になっておりました。誠に申し訳ございません。

そこで月も変わりましたので今回は、本来の奈良姓の由来ブログの内容に戻してみたい

と思いますです。現在、鎌倉殿の13人がブームになっていますので、その時代から。

 

 以前のブログでご紹介の通り、奈良姓を初めて名乗ったのが、平安末期、武蔵の国は

幡羅郡成田郷の在地領主 成田助高の三男で、近隣の奈良村に領地を得た奈良三郎高長であると言われますが、この由緒は江戸期の「成田氏系図」によって示されています。

ですから江戸享保年間に、熊谷市上奈良の妙音寺に、初代奈良三郎の墓を建立した外記

は、貞享年間に編纂された「成田氏系図」に、間違いなく影響を受けたのであろうと、推察出来る訳なのです。成田氏系図を見ていなければ、奈良三郎を知らなかったのか?

 

 では初代奈良三郎の名は、江戸期になってから突然世間に知られるようになったのか?、と申し

ますと、実はそのはるか以前から一応は、その名前が知られていたのでした。以前のブログの方

でもご紹介させて頂きましたが、「保元物語」に奈良三郎の名前が、既に登場しているのですよ。

つまり、奈良姓を含めた成田氏一族の、東国武士団創成期における状況が、既に示されていたのです。

保元物語とは、1156年(保元元年)に起きた宮廷内紛争、保元の乱を描いた物語りです。

この乱を契機として武士が台頭して来て、武士の世誕生への発端になった事件だと言われています。

要は、崇徳上皇と後白河天皇の間の、権力闘争物語りなんですが、双方に味方する皇族公家や源氏、

平氏、の各武士団一族が、それぞれ上皇方と天皇方に分かれて対立する構図でした。勝ったのは、

後白河天皇側で、美福門院、藤原忠通らと、平清盛+源義朝(鎌倉殿:源頼朝の父親)の軍で、

負けたのは崇徳上皇側、藤原頼長らと、源義朝の父である源為義+平忠正(清盛の伯父)らの軍でした。

 

 で、保元物語の上巻、「主上三条殿に行幸の事 付官軍勢揃えの事」の段で、源義朝に従う手勢の

者どもとして、武蔵国より、成田太郎、箱田次郎、別府二郎、奈良三郎、玉井四郎と、成田氏一族の

名前を列挙して紹介しているのです。(源義朝方の軍勢として、全部で50人ぐらい紹介しています。)

源義朝軍は総勢二百五十余騎とのことですので、奈良三郎も、4~5人の従者を引き連れての参戦

だったのでしょう。当時の戦の規模は、この程度の人数だったのですよ。ちなみに、平清盛軍でも、

総勢六百余騎だそうですからね。ですから初代奈良三郎も、生存時からそれなりに有名人(有力者)

であったことが判るのです。何せ、源義朝方の武蔵の国代表!?、として描かれているからです。

ただし、保元物語・平治物語にせよ平家物語にせよ、流布成立当初は、書物ではありませんでした。

作者も存在しません。琵琶法師による口伝だったのです。保元の乱という歴史的事件があって、その

事件の顛末を、全国各地に伝える諸国行脚の琵琶法師がいて、保元物語は全国に広まったのでした。

今で言えば、琵琶法師は、芸能人+マスコミメディアだったのでしょうね。琵琶法師の語る保元物語が

広く世間に定着するようになってからようやく、保元物語は書物にまとめられたのです。

ですから逆に、保元物語に登場する奈良三郎らは、武蔵国では有名人であったのだろうと思われるのです。

保元物語では、中巻の「白川殿攻め落とす事」の段でも、成田氏一族が入れ替わり奮戦する描写の中で、

奈良三郎の名前も出て来ます。まあ私は、成田氏一族の登場を、武蔵の国で琵琶法師が保元物語を上演

する際に、当地の観客を喜ばせるための、ご当地キャラとして入れていたのだと、見ていますけれどね。

3年後の平治の乱を描いた平治物語の方では、成田氏一族は登場していないのですよ。やはり平治の乱は、

東国武士の棟梁である源義朝が負けた戦だったから、ですかね? ヒーローは鎌倉悪源太だけですからね。

だとしても、保元物語に登場させているのですから、成田氏一族はやはり、地元の有名人だったのですよ。

ですから奈良三郎や奈良氏の姓も、当時から世間に知られていた訳なのです。だとすれば、保元物語以外

の記録にも、奈良氏や親類である成田氏一族の名前が、色々登場しているのでしょうかね? (次回へ)