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奈良武次氏について?Ⅳ

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。

 悲惨なウクライナ戦争は、益々長期化・泥沼化している様相なのですが、大量虐殺をしようが核兵器

を使用しようが、ロシアが勝利するという結末だけは無さそうな状況です。既に敗北しているのです。

世界中の国々が、誰もロシアの勝利を認めないからです。ロシアがどんなに強弁しようが、敗北への道

まっしぐらなのですよ。ですから、今抵抗し、苦しんでいるウクライナの人々を支援しましょうね。

 

前回、ウクライナ戦争後のロシアに対する戦後処理について、大日本帝国の解体処理を参考にするべき

と、提案させて頂きました。国際司法裁判所による、戦争裁判(モスクワ裁判)ですわね。

で、極刑が予想されるA級戦犯達は別として、ロシア軍将校、政治家、政府官僚、公安警察、財界人、

御用マスコミ・文化人、など数多くのB級・C級戦犯に対する刑罰についてなんですが、やはりロシアですから、懲役刑が良いと思うのです。懲役刑?と言っても、刑務所で家具などを作らせる訳ではなく

、日本人がやられたシベリア抑留ならぬウクライナ抑留で、ウクライナ復興の強制労働をさせるべきと

考えるのです。ロシア人が破壊した橋や道路、建物・都市インフラなどを、ロシア人自身の手で再建

させるのですよ。これにより、自分達の犯した罪を、痛感・反省させることが出来るハズなのです。

そしてロシア戦犯達の労働を指示・監視するのはもちろん、ウクライナ人です。いかがでしょうかね?

 

またこのところ、ロシアによるウクライナ侵攻の話題ばかりを取り上げてしまい、肝心の奈良武次氏

については、ほとんどコメントしていない状況でした。ブログタイトルに偽りあり、ですわね。

そこで今回こそは、きちんとご紹介しようと思う次第です。 そこで以下、

 

 奈良武次(1868年~1962年)は、明治から昭和初期の陸軍軍人(陸軍大将・男爵)です。詳細に

ついては、ネット等でご確認下さい。 で、彼の特異な経歴というのが、1920年(大正9年)~

1933年(昭和8年)まで、続けて昭和天皇の東宮武官長⇒侍従武官長を歴任し、昭和天皇の側近として

帝国陸軍とのパイプ役を担った!、と言う点にあるのです。かなりすごい人物だったのですね。

昭和天皇が皇太子時代の東宮武官から始まり、東宮武官長⇒天皇に即位してからの侍従武官長

まで、13年間も一貫して天皇の侍従武官を務めたのですから、昭和天皇の信任もそれなりに厚かったよう

なのです。そこで更に特筆すべき事例は、1931年(昭和6年)9月に勃発した帝国陸軍(関東軍)による

柳条湖事件により、満州事変が引き起こされ日中戦争に拡大して行った訳なんですが、この時、昭和天皇は、

軍部の戦争拡大方針を何とか押し止めようと、奈良武次侍従武官長を通じて、関東軍が戦線を拡大しないように、

直接伝えているのですよ。天皇の意思を、奈良武次に伝えている訳です。何と言っても大日本帝国憲法では、

軍の統帥権は、天皇にあるのですからね。本来はその意向に、必ず従わねばならない訳なんです。

しかしまあ結局は、国内世論(イケイケ)の圧力もあり、軍部の独走を抑えられなかった訳なんですが、

侍従武官長奈良武次が、昭和の歴史の転換点に、はっきりと関わっていたことが判るのです。

満州事変のやり方は、現在のロシアによるウクライナ侵攻と同じようなやり方ですわね。もちろん当時の

関東軍が、ロシア軍です。でもどうして、昭和天皇が奈良武次を通じて、戦線不拡大を伝えていたことが

判るのか?、と言うと、「侍従武官長 奈良武次日記」(2000年出版)で、書かれているからなのです。

しかし奈良武次にもそこまでの力は無かったようです。結局、昭和天皇のご下問は、うやむやにされてしまった

のでした。天皇の統帥権など、反故にされていたことが明らかになったのでした。従って軍部は、昭和5年の時

とは逆の意味で、統帥権干犯問題を引き起こしていたことが判るのです。

奈良武次も、侍従として昭和天皇の意向を知りながら時流に流され、意向を具現することは出来なかったのでした。

ですから、2000年(平成12年)に奈良武次日記が出版された際も、「ああやっぱりね、」と言うことで、

奈良武次があまり注目されることはありませんでした。

 

 ところがなのです、昨年NHKにより、「昭和天皇 拝謁記」(田島道治)の存在が報道(NHKスペシャル)され

ますと、昭和天皇の今まで語られなかった戦争への悔恨が明らかになり、大きな反響を呼び起こしたのでした。

田島道治氏は、戦後初代の宮内庁長官でした。彼に吐露した昭和天皇の戦争への深い悔恨の心情は、今まで知られて

いなかった昭和史研究のための、新発見資料になったのでした。

そして「昭和天皇 拝謁記」の出現により、同時代資料としての「侍従武官長 奈良武次日記」も、比較資料

として、俄然注目されるようになったのでした。そして改めて当時の昭和天皇が信頼を寄せた奈良武次を見ると、

侍従武官長奈良が、必ずしも戦争拡大論者ではなかったことが判るのです。ですから昭和天皇は、プーチンに

ならずに済んだのですよ!。 (次回へ)