奈良姓の本家筋、成田姓について。Ⅴ

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。成田姓についてのブログ

も、今回が最終回です。さてどのような結論になるのでしょうかね?

 

と、その前に、コロナオミクロン株感染の大爆発と、医療崩壊の件なのですが、昨年の

第5波で既に経験済み、であるにも関わらず、再びパニックが起きているようです。

入院施設が足りずに救急車たらい回しとか、検査キットが足りずにみなしコロナとか、

昨年の苦い経験が、全然生かされていないのですね。同じ過ちを同じように繰り返して

いる訳です。昨年12月~1月の患者数減少は、言い訳にはなりません。多くの専門家が

、第6波の再発を予言していましたからね。この頃世の中では、Gotoトラベルの再開?

などが話題になっていたのですよ。全ての対策が、後手後手になってしまったのです。

私など、65歳以上で、ワクチン2回目接種後7か月が経過していながら、未だに3回目の

接種券が送付されて来ませんからねえ、、、ワクチンを打てと言われても、接種券が

無いのですよ。どうしようもなくなった政府の、最後の手段とは、コロナを指定感染症

から、インフルエンザと同様の風邪の一種に、基準を変更することだと思われますね。

ゴールポストを動かして、ゴールを防ごうという、インチキ対策ですわねえ、、、。

 

 さて、成田姓についてなのですが、奈良姓などより遥かにメジャーな姓であるにも関わらず、

何故か奈良姓と同様に、秋田・青森に多く偏在分布しており、奈良姓のルーツとほぼ同じである

可能性を指摘させて頂きました。即ち、九戸政実の乱の影響で、多くの奈良姓・成田姓の人々が、

大挙して秋田・青森に逃れたので、このような人口比分布になったのだ?、という主張なのです。

鹿角由来記では、九戸方に味方した鹿角の大湯(奈良)四郎左衛門昌次の息子兄弟が、津軽に逃れた

という記述でした。しかしながら、兄弟2人だけが津軽に逃れたところで、人口分布に変動を及ぼす

などとは、常識的には考えられませんよね。この分布、一体どのように考えたら良いのでしょうか?

 

 そこで今回提示したいのが、科学的考古学発掘調査の報告書の存在についてなのです。

以前のブログでも、ちらっと引用させて頂いたのですが、1981年にまとめられた東北縦貫自動車道

発掘調査報告書なのです。発掘調査の結果、戦国末期に、鹿角郡の多くの領主館は、一斉に破却されて

いることが判明した、という事実なんです。言葉を変えるとこうなります、戦国末の九戸政実の乱後に、

鹿角領主の42館は、南部氏勢力によって一斉に破却され、鹿角四頭の一族は領地を追われ、青森・秋田

方面へ兆散していることが判った、ということなんです。(報告書は、そこまで言っていませんが、、)

更に当時(中世)の東国武士団とは、武装した農民のことであり、領主とは、農民の親玉に過ぎないのだ、

という点が重要になります。武士が農民から完全に分離して、サラリーマン武士になったのは、近世以降

のことなのですよ。とすると、青森・秋田方面へ兆散したのは、鹿角地方42村の、ほぼ全ての農民層で

あった、ということなのです。ですから民族大移動であり、人口分布も大変動したのですよ。

こうして毛馬内氏(成田氏)一族も大里氏(安保成田氏)一族も、大湯氏(奈良氏)一族も鹿角を追われ、

青森・秋田方面へと、大挙して兆散したのでした。その後逃れた土地では当然、現地名を名乗ることは

出来ませんので、当然本姓(旧姓)を名乗ることになるのです。しかし人数が多いので、移住先の土地でも、

それなりの繁栄を得ることが出来たのでした。

つまり青森・秋田に、成田姓が多いのは、このような理由によるから、なのです。(新説です。)

ですから秋田金足の奈良家は、移住して僅かな期間で、秋田を代表するような大豪農になった訳ですし、

青森の奈良家も、大人数だったからこそ、現在まで生き延びることが出来たのです。

 

さてそこで、今回掲示の人口分布図も、前回までと同様の、成田姓の分布図だと思われたでしょうね?

全然違いますよ! 今回の分布図は、奈良姓の分布図なんですけどねえ、、、(了)