いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。復活第二回目です。
世の中、オミクロン株大爆発の様相なんですが、2年前に比べ、さほどパニック
にはなっていないように見られます。やはり2年間の蓄積は大きいようです。
コロナが、普通の風邪になる日も近いのかも知れません。尾身会長の最近の発言
は、この辺りを言っているような気がします。コロナ検査キットも不足している
みたいですが、私もはや、無症状ならば、検査する必要は無いように思えます。
さて奈良姓の本家筋、成田姓について見て行く訳ですが、東国武士団成田氏の
名前が、歴史上に現れて来るのは、平安末期の保元物語あたりからでしょうか。
源義朝(頼朝・義経の父親)の家臣として成田太郎=長男成田助広の名前が出て
来ます。鎌倉幕府誕生以前から、源氏の家臣だったのですね。ですから当然、
成田助隆の三男である奈良三郎高長の子孫も、鎌倉御家人となって当然な訳です。
(添付の成田氏系図でご確認下さい。)
鎌倉期に入ると成田氏の名前は、吾妻鏡に、幕府家臣団として頻繁に出て来ます。
で、この成田氏なのですが、系図を見る限りは一本の系統で繋がっているようなの
ですが、実際は途切れておりまして、鎌倉幕府滅亡と共に、成田氏本家も同時に没落した
ようなのです。その後の成田氏を引き継いだ(奪った?)のは、親戚筋の安保氏でした。
南北朝期に、鹿角の成田氏惣領家(毛馬内氏)では、南朝方として敗北してしまいます。
とすれば、安保氏は北朝方(室町幕府方)であったと思われます。ですから家は残って
系図にある資員から先は、安保氏系に代わっているのです。※「郷土忍の歴史」稿本より
つまり、室町期から以降の戦国大名成田氏は、安保氏として考えるべきなのです。
ですから、鹿角の成田氏の系統も、毛馬内氏に代わり、安保氏系の大里氏に、惣領家が
代わっているのです。つまり鹿角の惣領家は、成田氏=大里氏になった訳なんです。
ところが後代の江戸期に編纂された鹿角由来記には、その辺の事情が何も記載されていない
のですねえ。(まあ敵の南部氏の編纂ですからね。)しかしこのように見ると、成田氏の流れは、
関東の地と、遠く離れた東北は鹿角の地で、実は密接に連動していることが良く判るのです。
ですから、成田長親がのぼうの城で、豊臣秀吉軍(石田三成)と戦ったと同様に、遠く離れた
鹿角の地では、九戸政実の乱で、大里(成田)修理と大湯(奈良)四郎左衛門は、秀吉仕置き軍と
戦ったのです。誰も指摘していないけれど、実はちゃんと連携・連動しているんですよ!
さてこの成田姓の皆さん、その後は、いったいどのようになって行ったのでしょうかね?(次回へ)

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