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奈良姓、始祖の本家筋、成田姓について。

 再びブログにアクセス頂き、誠に有難うございます。奈良姓の由来・歴史ブログを、半年ぶりに

復活させて頂きました。 現在市中では、またコロナ・オミクロン株が大爆発しておりますが、

奈良姓の皆様には、お変わりございませんでしょうか? 感染対策には、充分ご留意下さいませ。

また、今年のNHK大河ドラマが「鎌倉殿の13人」ということで、平安末期~鎌倉期が舞台になる

訳で、武士の姓が次々誕生し、我々奈良姓が生まれた時期とも重なりますので、鎌倉御家人奈良氏

なども、ドラマに登場しないかなあ?と、期待して見たいと思います。(まあ無理か、、、)

 

 さてブログ再開の初回は、我々奈良姓の始祖とされている、奈良三郎高長の本家筋に当たる、

成田氏についてです。成田氏系図によれば、初代成田助高の三男が、奈良三郎高長だそうですから

ね。 成田氏は、平安末期の東国武士団の勃興期に、武蔵国幡羅郡成田郷(現在の熊谷市上之)に

領地を得た成田助高が、成田姓を名乗った事に始まると言われております。 ※ちなみに、成田氏

発祥地の記載が、武蔵国騎西郡成田郷となっている文書が多数ありますが、当時、騎西郡などと

いう郡は、存在しませんでしたので、念のため。(室町期の成田氏領地変えで、混同したか?)

で当時の東国武士団は、獲得した領地の地名を、姓として名乗る風習があったので、成田の地に

入植した助高は、成田助高を名乗ったのでした。 要は、この成田の地は、俺(助高)のもの

だぞ!、というアピールのためですわね。当時の姓には、このような意味があった訳です。

東国武士団の姓は、このような形で出来上がって来ました。つまり新領地の地名の方が先にあった、

ということですね。我々奈良姓の場合も同様で、幡羅郡奈良村(現熊谷市奈良地区)に領地を得た

から、奈良三郎高長を名乗った訳です。東国武士団の姓は、このように発生して来ているので、

同じ武士団と言っても、それ以前の源氏や平氏の姓(貴族の姓)とは、姓の成り立ち自体が全く

違うのですよ。貴族の姓(かばね)は、皇族の臣籍降下によって与えられたものです。

でもこれら、成り上がりの東国武士団が、武士の世、鎌倉幕府を打ち立てたんですけどねえ。

 

 で、武士団成田氏について復習なのですが、元々奈良氏とは同族関係になりますので、鎌倉期に入り

ますと、鎌倉御家人として、当然一緒に従軍したり移動したりする訳です。その顕著な例が、鹿角由来記

に記載のある、鹿角四頭による鹿角(秋田県鹿角市)入植な訳です。軍功に対する恩賞として、領地を

得た訳ですね。鹿角四頭とは、成田氏、奈良氏、安保氏、秋元氏の四氏族でしたね。そしてそれぞれが、

鹿角に新しい領地を得て、その領地名を姓として名乗ることになります。成田氏は毛馬内氏、奈良氏は

大湯氏が惣領家でした。それぞれの一族は、42の館(領地)に分かれて、鹿角郡全体を支配したのでした。

ところが戦国末期の九戸政実の乱で、豊臣秀吉の第二次奥州仕置き軍に敗れ、四氏族は鹿角の領地

を追われたのでした。ここまでは鹿角四頭について、割と広く知られた?お話しです。

(詳しくは、過去ブログをご参照下さい。)

 

さてここからは、私の独自説だったのですが、鹿角由来記にある大湯氏の兄弟が津軽に落ち延びた記述を元に、

鹿角の落人達が、秋田や青森に逃れて定住して行ったのだという仮説を、奈良家の例を元に展開して来ました。

江戸初期に、大和国より移住してきたとされる秋田奈良家は、鹿角から逃れて来た武士団奈良氏の末裔である、

という新説になりました。多分、秋田奈良家からは、真っ赤な噓をつくなと、猛反発が出そうですわね?

そこで私は、奈良氏以外の鹿角四頭各氏族のその後も判れば、私の説を立証することが出来るのではないか?

と考えた訳です。そこでブログ再開第1回目は、奈良氏の本家筋である成田氏のその後?、になったのでした。

乞うご期待です。(次回へ)