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過去ブログ(まとめ)のご案内

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またこのような奈良姓の由来・歴史に興味・関心のある方々のために、ダイジェスト版

である「奈良姓の由来・歴史のまとめ」を、以下に掲示させて頂きます。もし内容に

興味を持たれた場合には、各詳細ブログをサイトマップから閲覧して頂けます。

 

<奈良姓の由来・歴史のまとめ>

1、奈良姓は、平安末期の東国武士の勃興期に、成田氏初代成田助隆の三男が、武蔵国

  幡羅郡の奈良村(現熊谷市)に領地を得て、奈良三郎を名乗ったことに始まる。

  当時の武士団は、自分達の領地を主張するために、領地名を姓として名乗ったから

  である。江戸期に建立された初代奈良三郎の墓は、中奈良地区の古刹、妙音寺の境内

  に現存している。妙音寺の境内は、かつて奈良三郎の居館が存在したと、伝えられて

  いる。 また奈良三郎の兄弟である別府二郎、玉井四郎もそれぞれ近隣に領地を得て、

  それぞれの領地名を姓として名乗り、その各地名は現在でも、熊谷市内の地名として存続

  しており、別府氏、玉井氏の墓もそれぞれの地区内に現存しているので、その存在は自明である。

  これらの系譜については、塙保己一の「続群書類従」に、成田氏系図として収録されている。

 

2、武州奈良村の名称は、村を拓いた古代大和朝廷の武官、「奈良別命」(ならのわけのみこと)

  に、ちなんで名付けられており、奈良村(熊谷市中奈良地区)には、その「奈良別命」を

  祀った、奈良神社(掲載写真)が現存している。近畿の奈良県や奈良市とは無関係である。

  豊城入彦命の子孫である奈良別命は、仁徳期の5世紀中頃、「先代旧事本紀」に記載のある

  下毛野国(栃木県南部)の国造(くにのみやつこ)を退任後、この奈良村を開拓した。

    奈良村の奈良神社は、927年にまとめられた「延喜式神名帳」に記載されている官社である。

  また、奈良別命の墓は、中奈良地区にある「横塚山古墳」(5世紀後半の前方後円墳)である。

 

3、鎌倉期には、成田氏の支族として奈良氏も、鎌倉御家人として活躍し、奥州合戦での戦功に

  より、成田氏、安保氏、秋元氏と共に陸奥国鹿角郡(秋田県鹿角市)に領地を得て、鹿角四頭

  として、戦国末期まで鹿角郡を支配した。鹿角の奈良氏一族の惣領家は、大湯の地を領有して、

  大湯氏を名乗った。また、新斗米氏、瀬田氏、小平氏、小枝指氏なども、本姓は奈良で、鹿角

  奈良氏の支族であった。秋田大湯温泉には、戦国期の大湯氏の城郭跡である大湯鹿倉城跡がある。

  これら鹿角四頭については、江戸前期に書かれた「南部叢書」内の「鹿角由来記」等に、詳しく

  記載されている。

 

4、また承久の乱後に、足利氏庶流である細川氏に付き従った御家人奈良氏一族は、室町期に入ると、

  代々幕府管領細川家の重臣として摂津守護代などを務めた。更には香川県の西讃岐(鵜足・那珂)

  に領地を得た細川勝元の重臣、奈良元安などは、丸亀城・聖通寺城などを築城し、細川家四天王

  と呼ばれるほどの活躍を見せたが、戦国期に入ると讃岐奈良氏は勢力が衰え、新興の長曾我部氏

  との戦いで敗れた後は、讃岐奈良氏の子孫たちは、農民として摂津や宇多津周辺に定住した。

  これら讃岐奈良氏の事績については、江戸中期に書かれた「南海通記」や幕末の「西讃府史」に、

  詳しく記載されている。

 

5、戦国末期に鹿角奈良氏の一族は、陸奥南部氏の内紛を端緒とする九戸政実の乱に加担し、九戸方重臣

  として、兵力6万5千の豊臣秀吉奥州仕置き軍と戦い、これに敗れた。この敗北により、鹿角奈良氏

  惣領家の大湯氏の子孫兄弟達は、北の津軽に逃れ、津軽氏(弘前藩)に仕官した。また西へと逃れた

  別の奈良氏一族は、豊川(潟上市)を経て辿り着いた秋田は金足の地で、大豪農となり、成功した。

  また戦国末期まで成田氏の家臣として仕えた騎西奈良氏一族は、北条方として、豊臣秀吉軍による

  小田原攻め(のぼうの城)での敗北の後、騎西郡内(行田市、加須市)で、農民として定着した。

  上記鹿角奈良氏の加担・敗北した、九戸政実の乱に関する史料、文献は、各方面に多数存在する。

 

6、江戸期には、秋田金足に逃れた鹿角奈良氏の子孫が農民として成功し、秋田を代表する大豪農と

  なった。その江戸期の住宅は、重要文化財奈良家住宅として、現在秋田県立博物館分館として展示

  されている。また、弘前藩藩士名簿には多数の奈良姓の名前が見える。更に成田氏の同族であった

  秋元氏の家臣となっていた奈良氏一族は、上野総社藩の立藩により、秋元氏の家臣として上州前橋に

  入り、その後の秋元氏の甲斐谷村藩への転封により、奈良氏一族も甲斐の都留郡(都留市・上野原市)

  に移住している。また秋元氏は江戸幕府より、利根川の引水という治水事業を命じられていたため、

  家臣である奈良氏一族も、利根川治水工事のため、邑楽郡明和村(群馬県明和町)に移住している。

  これらの各地に入植した奈良氏一族の多くは、最終的に各地の農民として地元に根付いて行ったが、

  一部の農家の次男坊・三男坊は、江戸・大阪に奉公に出て、町人となった。江戸では、神田に定住し、

  材木商として大豪商になる者や、町人としての行政トップである江戸町年寄の一人になる者も現れた。

 

7、明治期に入ると、武士の世の終焉により青森の元弘前藩士の奈良姓達は、新たに奨励されたリンゴの

  栽培農家などへと転職して行った。 筆者である私の直接の先祖も、この系統である。当時の住宅は、

  津軽の家(旧奈良家住宅)として、宮城県の「国営みちのく杜の湖畔公園」内に展示されている。

  他の青森奈良姓の中では、弘前藩の伝統工芸品であった津軽塗の、商業組合をまとめる者も現れた。

  また秋田県でも、金足の豪農であった奈良家より、農業関係や財界関係で、多くの著名人が輩出された。

   

  以上の歴史的理由・経緯により、各奈良姓一族は、全国でも上記の地域ごとに、偏在する形になった。

  つまり皆さん自身のご先祖も、奈良姓である限り、上記いずれかの系統に、必ず当てはまっているハズ

  なのですよ。(以上)

 

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