奈良姓発祥の地、熊谷探訪のご案内‐Ⅳ

 元眼底メディカルで、奈良姓の由来や歴史の調査手法について、色々と書かせて頂いて

おります。いつも、このブログをご訪問頂き、誠に有難うございます。

 

<時候のコメントは、削除させて頂きました。>

 

 さて前回の熊谷探訪では、我々奈良の地に隣接する親類玉井の地を訪れ、弟玉井四郎の

居館であった玉井寺と玉井神社の訪問・散策について、色々ご案内させて頂きました。

そして今回、更に散策時間がある場合には、玉井の地の北隣りの、兄である別府氏の地

訪問も、ご紹介しようと思うのです。この三地区、徒歩で回れるぐらい近いんですね。

であればいっそのこと、親・長兄の地である成田の故地も一緒に訪ねようか?と、思わ

れるのですが、これはちょっと無謀なんです。熊谷市内でもかなり遠いので、奈良地区

からの徒歩移動では無理なんですよ。と言う訳で、成田氏の故地(上之)へは、日を改めて

新たにバスを乗り継いで、ご訪問してみて下さいませ。 JR熊谷駅からでしたら、徒歩で

30分ぐらいの近さなんですけどね。

 

で、成田氏始祖成田助高の次男別府二郎行隆の故地への散策なんですが、前回の玉井神社の

訪問後から続きます。新編武蔵風土記稿によれば別府村は、江戸期の正保年間に、東・西の

別府村に分割されたそうで、東別府村は上奈良村と玉井村に接していました。でも、はるか

以前にも、別府領地は別府氏の子孫達により東西分割統治されていたのです。しかしその件は

後ほどに。 と言う訳で、現在の住居表示でも、東別府・西別府に分かれているのですね。

で、東別府村には、後の別府氏により建立された香林寺や古城跡があると、記載されています。

 

さて別府の地への行き方ですが、玉井神社への鳥居まで戻り、左側に見える道へUターンします。

300mぐらい進むと左側に「もちだ食堂」が現れますが、左方向へ直進して、用水路を渡り、

そこから10分程まっすぐ行きますと、まず右手に、先ほどの香林寺への案内石柱が現れます。

この香林寺も、後の別府氏が創建した寺院であることが知られていますが、更に150m程進みますと、

右手に今度は 東別府神社の案内石柱(写真)が現れますので、ここを右に入りましょう。

現在は東別府神社になっているのですが、実は先程の東別府城址でもあるのですよ。現在でも濠や

土塁の跡が、良く残っています。まずはこちらを見学します。でも、東別府?って、どういう経緯

なのでしょうかね? 実は成田氏系図によりますと、成田氏初代助広の次男が、別府の地を得て

初代別府二郎行隆になる訳です(三男は、言わずと知れた奈良三郎高長!)が、その別府二郎行隆の

子供の代に、別府の地は、別府太郎能幸の東別府氏と、別府二郎行助の西別府氏の地に、分割統治

されて行ったのでした。この東別府氏の方はその後も続き、戦国期である天正年間に家禄を失ったと、

新編武蔵風土記稿には記載があります。実際には天正18年に、豊臣秀吉の小田原攻めによって、

東別府氏は北条方として滅ぼされています。ですから古城跡の遺構も、現在まだ残っているのですね。

詳細については、東別府城址の史跡看板の方でもご確認下さい。まあ叔父である奈良三郎側から見ると、

別府太郎能幸と別府二郎行助は、共に甥になる訳なんですけどね。このような見方で別府氏一族を見て

みますと、我々の奈良三郎の存在リアリティの方も、ぐっと高くなる訳なんです。

で、東別府神社の方はと言うと、何と東別府城内の鎮守社であったようなんです。現在の立場は、

何故か逆転していますよね。

このように奈良氏、玉井氏、別府氏と、続けてその遺構を逐次確認して頂くと、我々奈良姓一族に

とっては、もはや成田氏系図の記載を、史実として信じるしかないだろうと、思われるようになる

のです。

さて東別府城跡見学の後は、最後に西別府氏の遺構も、見学に行きましょうかね? 西別府氏の方も、

数代は続いたようですよ。その行き方は、元来た東別府神社の案内石柱まで戻り、右折して道なりに

15分ぐらい歩くと、県道276号の信号道路に出るのですが、その150mぐらい手前の路地の右手奥に、

九品仏堂の建物が見える道路がありますので、これを入ります。突き当りが九品仏堂で、右隣りには

奈良時代の養老年間に創建された?と伝わる古刹「安楽寺」があります。

更にその前には、県史跡「別府氏の墓」があるんです。1日散策の最後に、これらを見学しましょうか。

でも説明が長くなりそうなので、続きは次回へ。