元眼底メディカルで、奈良姓の由来や歴史について、書かせて頂いております。毎度、
このブログをご訪問頂き、誠に有難うございます。
以前の奈良姓の由来・歴史ブログを、加筆・再編して、掲載させて頂いております。
<時候のコメントは、削除させて頂きました。>
さて前回は、江戸期まで全人口の八割を占めた農民層の氏姓調査の手法について見て来た
訳なんですが、江戸期に入りますと、市場経済の発展により、江戸・大阪という大都市が
形成されて行くようになり、「町人」という新たな階層が数多く出現するようになります。
いわゆる商人や職人層ですわね。
実際、江戸開府時の人口は、たかだか5~6万人程度でしかなかったのに、江戸後期には、
何と100万人を超えるまでに膨張している訳なんです。まあですから、江戸の町には農家を除いて
生粋の江戸っ子なんておらず、ほとんどの江戸町人は、元を遡れば、各地方からの移住者ばかり、
なんですけれどね。しかし我々の氏姓の由来・歴史調査においては、各人、明治期まで 遡って調べた
戸籍簿調査で、ご先祖が江戸や大阪の町人(平民)であった!となると、少し困ってしまうのですよ。
何故なら、彼らが江戸・大阪に移住した理由・原因が、あまりにもはっきりし過ぎているからなんです。
つまり理由がはっきりし過ぎているので、逆に個々人の移住の歴史を遡ることが難しくなるのですわ。
戦乱とか災害等が、移住の原因じゃあないんです。大都市の市場経済の発展に伴って、言わば自然に
移住人口が増大して行っているからなのです。しかもこの移住、昔のような一族郎党引き連れての一族
大移動なんかじゃあないんです。単身で地方から、ふらりと江戸や大阪に出て来るような移住なんです。
該当者は、地方農家の次男坊とか三男坊ですね。彼らに分け与えられる農地もなく、日々食べて行くのが
精一杯の地方農家の次男坊以下にとっては、発展著しい江戸・大阪に出て職を得るのが、唯一の生き残る
ための手段だったのです。ちょいと昔に普通であった、東北農家の東京への出稼ぎと、同じ感覚ですわね。
この歴史現象は、「都市経済の発展による、サラリーマンの誕生?」と、考えても良いかも知れません。
だって、取り合えず江戸に出て行けば、何とか食べて行くことが出来るようになったんですからね。
つまり、市場経済の発展によって、江戸・大阪に様々な仕事が、たくさん増えたからなんです。
でもどうして、江戸や大阪の町人だと、個々人の歴史を調べることが難しくなるのでしょうかね?
多くの貧しい地方農家の次男坊・三男坊は、10歳ぐらいになると江戸に奉公に出されます。最初の仕事は、
職人の見習い(徒弟)とか、商家の丁稚・小僧などですね。実はこの時、親方や主人から、新しい名前が
与えられるんです。(~松とか、~吉などです。) つまり新しい環境で、新たに生きて行くために、
「過去の歴史が消される」訳ですね。で、最初は衣食付きの住み込みで、その後の年期明けには長屋住まい
になり、その後所帯を持ちと、このようにして江戸の町人が形成されて行きます。幼くして嫁に行けぬ女性も、
江戸や大阪での女中見習い奉公から始まり、その後女中頭になり、と言うその先は、男の例と同様でした。
まあ考えようによっては、現在の都会のサラリーマンの人生と同様ですわね。で江戸の八つぁん・熊さんは、
地方農民の出身で元々武士ではないので本姓もありませんが、実際は、姓を名乗っていなかった訳ではなく、
江戸では店の屋号や、居住地の地名などを、自分の姓として名乗っていました。(越後屋さんとか、神田さん等)
従って戸籍簿調査で、明治初期に東京に住んでいた平民がご先祖であった場合の、更なるルーツ調べは、
以上のような理由により、かなり難しくなるのでした。何度も頻発した江戸の大火の影響で、居住地(長屋)も
ころころ変わっていたハズですからねえ。でもそうなると、調査方法は、江戸の同姓有名人調査ですかね?
私も奈良姓の調査で、何人か武士以外の江戸町民の奈良姓の有名人を調査したのですが、有名人とは言え、
江戸期より以前には、なかなか遡ることが出来ませんでした。どうしても江戸町民は、江戸時代の移住時からが、
スタート点になってしまうから、なんですねえ。
でもまあ一応、江戸の町民の奈良姓有名人の調査結果についても、少しは触れて置きましょうかね。(次回へ)

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