青森県藤崎町 奈良源三郎家のその後は?

 元眼底メディカルで、奈良姓の由来や歴史について、書かせて頂いております。

毎度、このブログをご訪問頂き、誠に有難うございます。

以前の奈良姓の由来ブログを、加筆・再編して、掲載させて頂いております。 

 

<時候のコメントは、削除させて頂きました。>

 

 

 さて前回までは、右の奈良源三郎墓写真と、明治期のウチの先祖の戸籍簿を照合

することによって、ようやく写真の墓が、私の5代前の高祖父の墓であることを

確認することが出来た、というこの経緯について、ご説明させて頂きました。

まあ確認出来たこと自体は嬉しいのですが、父親清助が早くに死去し、後見人である

祖父源三郎もすぐ後に亡くなり、幼くして戸主となった私の曾祖父儀助のその後に

ついては、何故か心配になってしまうのでした。

そこで戸籍簿を調べてみますと案の定、以下の寂しい現実が、見え隠れしたのでした。

ちょいと複雑で分かりにくいのですが、奈良源三郎家の史実ですので何卒ご勘弁下さい。

 

明治10年源三郎が死んだ直後は、戸主となった8歳の儀助には、姉の「くり」と、くりの

婿養子に入った「文次郎」がいたので、何とか藤崎の奈良家は維持されたのですが、

その後、姉のくりが死去すると、婿養子の文次郎は、別の女性「りろ」を後妻として、

奈良家の分家を興します。そして本家には成長した儀作と、妻の「すわ」が残りますが、

この頃には、多分既に奈良家でも、りんご栽培を始めていたのだろうと思われます。

年代は、明治20年頃でしょうか。翌年の明治21年には、私の祖父となる長男源太郎が

誕生しています。この頃は奈良家のリンゴ栽培も、それなりに順調であったのでしょう。

ところがその8年後、戸籍簿上では、奈良家に大きな悲劇?が訪れるのです。

明治39年5月に突然、奈良家は、養女「なさ」を迎え入れ、直後に婿養子だった分家の

奈良文次郎の次男「武之助」を、養女なさの婿養子として、受け入れているのです。

どういうことなのでしょうか?、複雑で少し分かりにくいですかね? 単純化しますと、

源三郎・儀作の奈良家は、かつて奈良家の養子であった、「文次郎⇒武之助」の系統へと、

家系が変わってしまった、と言うことなのです。一体何があったのでしょうかね? 

戸籍簿からは、何も判りません。しかし私は、この時期、数年前から続いていたリンゴ

病害虫被害発生によるリンゴ栽培の失敗、そして借金の問題が、深く関係しているに

違いないと考えるのです。ですから儀作、源太郎一家は、家と土地を手放し、北海道

室蘭市へと、移住しなければならなくなったのです。まあ養子縁組をすれば、奈良の

家名だけは、残せますからねえ。情けないけれど、やはり、元武士の家なのですよ。

もしかすると、婿養子の文次郎が、奈良家の存続を助けてくれたのかも知れません。

しかし奈良儀作・源太郎一家は、以降二度と故郷である青森県藤崎町を、訪れること

は、ありませんでした。まあ恥ずかしくて、里帰りなど出来なかったのでしょうね。

(※平成17年に、「奈良儀作⇒源太郎の子孫達」が訪れるまでは、、、です。)

 

そして再び掲示写真に戻ると、奥の奈良源三郎墓の手前隣りに、現代の奈良家の墓石

が建立されています。多分この墓は、奈良文次郎⇒武之助・なさから現代にまで続く、

藤崎町奈良家の墓なのでしょう。ですから、奈良源三郎墓の右隣りに、敢えて建立されて

いるのですよ。私はこうしてようやく、奈良源三郎の墓の秘密を、解釈したのでした。

やはり結論としてこの奈良源三郎墓は、明らかに私の直系先祖の墓だったのです。

 

こうして、武蔵国奈良村の奈良三郎から始まり、鹿角から津軽へと続いた奈良姓の歴史が、

現在の私の家系と、遂にようやく繋がったのでありました。(一旦了、次回へ。)