明治・大正・昭和、私の先祖の動向は?

 元眼底メディカルで、奈良姓の由来や歴史について、書かせて頂いております。毎度このブログをご訪問頂き、

誠に有難うございます。以前の奈良姓の由来ブログを、加筆・再編して、再掲載させて頂いております。

 

<時候のコメントは、削除させて頂きました。>

 

 さて前回の、青森県におけるリンゴ栽培の歴史を辿ることによって、いよいよ私の直接の先祖の状況についても、

ある程度の推測が可能になって参りました。病害虫被害など、色々あったのですねえ。

で、今回お示ししたのは、筆者である私に繋がる簡易家系図なんです。私の明治期まで遡る戸籍簿でも、奈良源三郎

から始まっているのです。果たして前回写真の奈良源三郎墓石と、私は本当に関係があるのでしょうかね?

 

 私の祖父、奈良源太郎(明治21年生れ)が、生地青森県南津軽郡十二里村(現藤崎町)でのリンゴ栽培を諦め?、

北海道室蘭市への移住を決断したのは、曾祖父儀作の代、明治39年発生の最初のリンゴ病害虫被害の後であろうと

思われます。明治40年当時まだ19歳の祖父源太郎には既に、妻まさ、長女たけと、長男源三郎がおりました。

つまり妻子らを引き連れての北海道移住だった訳です。また実家である儀作のリンゴ農家の方は、遠縁の養女なさを迎え、

更に甥の武之助をなさの婿養子に迎えるという不可解な動きにより、同じ奈良姓とは言え、青森の奈良家は、祖父源太郎

の一族とは別の家系へと、変貌して行ったのでした。つまり長男の源太郎には、帰る実家も無くなっていたのだろう、

と思えるのです。(曾祖父奈良儀作の戸籍簿調査により。)

何が起きていたのか?、本当のところは良く判らないのですが、当時の大規模病害虫被害でのリンゴ栽培の失敗による

借金問題あたりが、可能性の高い理由であろうと思っています。いずれにせよこのような背景の中、祖父奈良源太郎は、

北海道は室蘭市へと、移住することを決意したのでした。

 

しかし何故移住先が、よくある東京あたりではなく、北海道は室蘭市だったのでしょうかね? この点を解明せねば

なりません。私は、何より源太郎の側には、移住してすぐに稼がなければならない、と言う事情があったのだろう、

と思われるのです。だから、農業じゃあダメなんです。最低1年はかかりますからね。でも当時の弘前や青森市には、

すぐに稼げる良い仕事などありません。そこで目を付けたのが、藤崎から比較的近い新興都市、室蘭だった訳です。

室蘭は良港に恵まれ、既に明治30年代から鉄道(室蘭・岩見沢間)が引かれ、石炭の積み出し港として栄えていました。

更に直近の明治40年には、北海道炭鉱汽船(北炭)と英国アームストロング社、ヴィッカース社の共同出資により、

日本海軍最大の兵器工場となる日本製鋼所室蘭が設立され、続く明治42年には、北炭の出資による日本製鉄(輪西)

製鉄所も設立され、室蘭市はいよいよ、鉄の街室蘭として、広く知られる存在になって行くことになるのでした。

このような状況を知った私の祖父:奈良源太郎は、室蘭に行けば、すぐに稼げる仕事があるに違いないと、思ったに

違いありません。まあやはり、返済しなければいけない多額の借金があったのかも知れませんね。それが証拠には、

祖父源太郎一家は、北海道室蘭市に移住して以降一度も、故郷であるはずの青森県藤崎町には、帰っていないらしい

からなんです。本当は、故郷を捨てたのかも知れません、、、、

 

明治末期に北海道室蘭市に移住して以降の祖父、奈良源太郎一家の動静については、実は良く判っておりません。

源太郎の子供達10人も、既に全員、鬼籍に入ってしまっているからです。私も、父親や伯父・伯母の若い時の経歴は

聞いていても、祖父については何も聞かされてはいなかったのでした。ただ、当時の住所を室蘭市御崎町御前水に

定めているところを見ると、目の前には、日本製鋼所の各事業所が多数ありますので、日本製鋼所(兵器工場)関連の

仕事をしていたのかも知れません。ちょうど当時は日露戦争戦勝後で、日本は富国強兵策真っ盛りだったからなんです。

このあたりの時代状況も、祖父源太郎一家が、室蘭に移住した要因になっているのかも知れません。

そして室蘭の日本製鋼所の軍需兵器部門の業務は、機密保持のため、当時は徹底的に情報管理統制されていました。

そうすると、いくら家族とは言え、自分の仕事の内容を、気軽に話すことは出来なかったのであろうと思われます。

室蘭は軍需工業都市でしたから、太平洋戦争末期には、米軍から多大な攻撃も受けました。東京を含めて国内の多くの

都市は、米軍の空襲による攻撃被害だった訳ですが、室蘭は少し違っていました。空襲もあったのですが、それなりの

防空体制を取っていて持ちこたえたため、米海軍は戦艦ミズーリ・戦艦アイオワなどなど13隻を室蘭沖に派遣し、何と

海から艦砲射撃を行ったのでした。(江戸の黒船か!)しかしこの攻撃により室蘭は、大きな被害を受けたのでした。

当時の日本は、制空権だけではなく、制海権も既に失っていたことが判るのですね。これには祖父奈良源太郎一家も、

大きな衝撃を受けたのだろうと思われます。

ですから敗戦後には、日本製鋼所の軍需工場が全て閉鎖されたため、源太郎の長男源三郎(またまた長男:源三郎!)は、

御崎町御前水を去り、何故か室蘭市北東部の高砂町で、室蘭工業大学の学生相手に、下宿屋!を営むことになります。

でもこの頃はまだ、祖父源太郎も存命だったのでした。(昭和29年没)※私の生まれる前のことです。

また、私の父の兄の正彦も室蘭市在住でしたが、戦後は日本製鋼所ではなく、富士製鉄(新日本製鉄)のトラック運転手

として勤めたのでした。ちなみに私の父である五男義一は、室蘭在住ながら、戦後は工場ではなく、商家に勤めています。

とまあこのように、青森県藤崎町出自の奈良家と現在の私は、こうして繋がっている訳なのですが、それでは前回写真の

高祖父奈良源三郎の墓?は、何故ウチの先祖の墓ではない?と、言えるのでしょうかね? (次回へ)