元眼底メディカルで、奈良姓の由来や歴史について、書かせて頂いております。毎度このブログをご訪問頂き、誠に有難うございます。以前の奈良姓の由来ブログを、加筆・再編して、再掲載させて頂いております。
<時候のコメントは、削除させて頂きました。>
これまで奈良姓の発祥から始まり、その後各地に散らばった奈良姓の人々の活躍と歴史的繋がりに
ついて、見て参りました。そしていよいよ、私の個人的課題になるのですが、私の直系の先祖達が、
今まで見て来た奈良姓の歴史の中に、しっかり繋がって行くことが出来るのかどうかが、最大の焦点になって参りました。これからのブログでは、この課題(最終的に、私と繋がるのかどうか?)を、
じっくりと解きほぐして行きたいと思います。私の調査手法が成功するかどうか?、なんですね。
と言う訳で今後は、かなり私的な記述が多くなってしまいますが、何卒ご勘弁頂きたいと思います。
さてこの写真は、以前のご挨拶ページでも紹介させて頂きましたが、私の父を含むウチの奈良家
一族が、平成17年に先祖の故地である青森県藤崎町を訪れた際、心光寺の共同墓地で発見した?、
ウチの直系先祖の墓じゃあないか?、と考えられた、奈良源三郎の墓石の写真なんです。
実際戸籍簿調査によれば、私の5代前の、江戸~明治初期のご先祖の名が、奈良源三郎なのでした。
この写真の奈良源三郎墓が、私の直系先祖の墓であるとすると、明治期の私の5代前の先祖であると
言えることになるのです。つまり、私の直系先祖の墓であると証明しなければならない訳ですね。
もしそれが証明出来れば、長い奈良姓の歴史と、私の歴史とを繋ぐ、第一歩になると考えるのです。
ところで我が奈良家の伝承によれば、明治後期に、2代前の私の祖父奈良源太郎の代に、リンゴ農家を
やめて、北海道は室蘭市へと移住して来た、と言う話しでした。まあもちろん事実でしょうけどね。
さてこのような伝承に、歴史的背景・史実などは、あるのでしょうかね? と言う訳で、まず最初に、
明治期の青森県のリンゴ栽培の歴史を、少し振り返ってみたいと思います。
まず明治5年(1872年)に、明治政府による卒族(下級武士)廃止と扶禄制度の整理が行われますと、
旧弘前藩下級藩士も食べて行けないため、帰農帰商推奨策により、武士をやめて、農民や津軽塗の職人!
などになる者が現れ始めます。しかしながら当時の青森県は、米作の北限地なのでして、やませ(風)
の影響により、毎年の冷害不作が続く厳しい農環境にあり、米作農業ではなかなか食べて行けない状況
であったのでした 。具体例としては、新政府に敗れた旧会津藩の、下北半島の斗南藩(となみはん)への
移封での困窮・惨状は、会津では良く知られるところです。
で、そんな青森県へ明治8年(1875年)、殖産興業策の一環として、内務省より、リンゴの苗木が配布
されました。これも失業士族達への就農支援対策だったのでした。え?、リンゴ農家!
しかし5年後の明治13年(1880年)、青森県庁内に試植された苗木が見事結実し、リンゴが初めて収穫
されたのでした。リンゴの栽培は、寒く厳しい青森県の環境に適していたのですね。
そしてこの成功を受けて明治17年(1884年)、旧弘前藩士族11人が、事業としてのリンゴ栽培をめざして
「果樹会」を結成します。そして更に明治19年(1886年)には、近郊の藤崎村に於いても、佐藤勝三郎や
長谷川誠三らによって、7.5ヘクタールもの大規模リンゴ栽培会社「敬業社」が結成されたのでした。
その後は、青森県内各地に大規模リンゴ農園が、続々と誕生し、この青森リンゴ栽培事業は大成功を収めた
のでした。「リンゴは、金の成る木。」と呼ばれるまでになりました。多分この頃、ウチの先祖の奈良家も、
一攫千金を目指して、リンゴ栽培に参入したのだろうと思われます。もしかすると「敬業社」の小作農かな?
と言う訳で、旧弘前藩士族による農業参入策として、リンゴ栽培が青森県内に広がって行ったものですから、
初期のリンゴ栽培農家は、弘前市近郊での営農が多かったのでした。
その後明治24年(1891年)には、上野・青森間に鉄道が開通し、木箱に詰められた青森リンゴは、東京の
神田市場へと、短時間で直接届けられるようになりました。これにより青森リンゴは、秋から初冬の味覚
として、全国的に知られる存在になって行ったのでした。
ところが明治30年代に入ると青森のリンゴ栽培農家に危機が訪れます。大規模な病害虫被害に、度々襲われる
ようになったのでした。この影響により、藤崎村の「敬業社」も明治34年(1901年)には解散してしまいます。
しかし懸命の袋掛け対策などにより、病害虫被害は一時的に収まり、青森のリンゴ農家は、それでも何とか、
リンゴ栽培を続けて行ったのでした。
しかしところが、袋掛け対策にも拘わらず、明治39年頃になると、再び大規模病害虫被害(モニリア病)が
大発生しました。この二度目の大規模被害により、遂にリンゴ栽培を諦める農家も現れるようになりました。
この二度目の大規模病害虫被害発生により、リンゴ栽培を諦めて、北海道へ移住したのが、私の祖父である
「奈良源太郎」であろうと考えられるのです。移住時期は、明治40~41年頃(1909~10年)のことであった
のだろうと思われます。(いつ青森から出て来たのか、私聞いていないのですよ。)
祖父源太郎は、明治21年(1881年)9月の生まれですから、当時の年齢は、19歳~20歳ぐらいであったと
思われます。南津軽郡十二里村(現藤崎町)の実家には、曾祖父奈良儀作がまだ38歳ぐらいでおりましたし、
奈良家実家の農業は、養女である姉「なさ」(明治17年生まれ)が、婿養子「武之助」(明治14年生まれ)
と結婚することにより、引き継がれて行くことになります。ですから祖父源太郎は、考えようによっては、
比較的自由に、新天地を目指すことが出来たのだ?、と思われます。でも祖父源太郎は、果たしてどのような
理由から、新天地北海道は室蘭への移住を、決意したのでしょうかね?(次回へ)

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