津軽に逃れた奈良氏のその後は?

 元眼底メディカルで、奈良姓の由来や歴史について、書かせて頂いております。毎度このブログをご訪問頂き、誠に有難う

ございます。以前の奈良姓の由来ブログを、加筆・再編して、再掲載させて頂いております。 

 

<時候のコメントは、削除させて頂きました。>

 

さて前回までで、秋田方面(西)に逃れた鹿角奈良氏の末裔達のゆくえは、ひとつ判明したとして、北へ向かった鹿角奈良氏

の末裔達については、何か痕跡など残されているのでしょうか? もし何か残されていれば、私の直系先祖との繋がりだって、

判明するかも知れませんね。何故なら、明治初期の私の直系先祖の本籍地は、現在の青森県南津軽郡藤崎町であったからです。

確か、戦国末期の九戸政実の乱で、大湯奈良氏の居城(写真:大湯鹿倉城)は、南部方に攻められて落城し、大湯四郎左衛門

昌二の子、治郎左衛門と彦左衛門は北へ逃れ、津軽氏に仕官・奉公したと、写真の「鹿角由来記」(南部叢書)には書かれて

いましたよね? その後は一体どうなったのでしょうかね? 何か奈良姓の人々の痕跡は、残っているのでしょうか?

 

豊臣秀吉より戦国大名として認められた津軽為信は、後の関ヶ原の戦いでは東軍に味方して、徳川家康より所領を安堵され、

弘前藩初代藩主になります。と言う訳で、落延びて津軽氏の家臣となった鹿角は大湯奈良氏の、弘前藩内での痕跡について、

色々検索はしてみたのですが、江戸期の弘前(津軽)藩での、奈良家の活躍?などは、残念ながら見つけられませんでした。

まあ予想通りですね。家臣になれたと言っても、所詮下っ端家臣でしょうからねえ。で、ようやく発見出来た、江戸期での

弘前藩家臣奈良氏の活躍記録としては、「弘前藩庁日記」の元禄12年(1699年)正月26日の記述で、「お姫様が、城内の

キツネが恐い!と脅えられたので、翌27日、城内北の丸へ犬2~3匹を放して、キツネを噛ませるように、奈良三郎兵衛に

申しつけた。」との記載でした。(「古文書で見る弘前城あれこれ」4/4 弘前市立図書館より) まあ何と重要なお役目!

です事。名前の方はやはり、初代奈良三郎がらみなのですねえ? さすが武蔵国出自の奈良氏の末裔ですわ。まあ実態は、

こんなものなのでしょうねえ。江戸期の弘前藩は、取りあえず平和なのです。鹿角奈良氏の末裔と思われる人物の足跡が、

散見出来ただけで、良いのですよ。こうして平和な江戸期は過ぎ、弘前藩も幕末・明治へと移り変わって参ります。そして

世は変わり明治5年には、廃藩置県・帰農帰商令等により、弘前藩の武士の世は終わるのですが、この時藩へ、由緒書きを

提出した家臣の名前が、「津軽家文書総目録」:弘前市立図書館編の中に残っています。多分士族卒族の人数確認ですかね?

中に16人の奈良姓が確認出来ますが、多いですかね? でも成田姓は、何と55人もいるのですよ。多分奈良の更に前の本姓

である、成田を名乗ったのかなあ? まあ低い身分ながら、同姓・同族の家臣が多数いたのですね。更にまた同様の文書で、

「津軽史 解説目次抄5」青森県立図書館 の中にも、由来書を提出した家臣として、奈良惣兵衛以下5人の名前が書かれて

いますので、明治時点でも、多くの奈良姓家臣が存在していたことが判るのです。彼らはやはり、鹿角を逃れた大湯奈良氏ら

の子孫である可能性が高いのだと思われます。それが証拠には、弘前市には800人を越える奈良姓が居るにも拘らず、同じ青森

県の大都市である八戸市(南部氏系)には、現在奈良姓が80人程度しか存在しないからなのです。(統計学的に有意です。)

 

さてその後の元家臣は、明治政府の帰農帰商奨励策により、リンゴ農家など、平民として生きて行くことになります。秋田は

金足の豪農奈良家のように、有力家となって行った青森の奈良家などは、果たして存在するのでしょうかね?

ちなみに、青森県のリンゴ栽培は、明治8年(1875年)に、廃藩置県後の失業武士の就農支援対策事業として始まりました。

ですから初期のリンゴ栽培は、弘前市郊外に農地を見つけ、元弘前藩士達がお金を出し合い、会社(協同農場)を設立する

ことによって、大規模リンゴ栽培をスタートさせています。この栽培成功により、県内に広く、リンゴ栽培が普及しました。

さて元武士としての津軽奈良氏の子孫達も、同様にリンゴ栽培を始めたのでしょうかね? そう言えば、私の直系の先祖も

明治期には、弘前市東隣りの藤崎町で、リンゴ栽培をしていたことが明らかになっています。何となく繋がりますよね?

まあもちろん私の先祖は、秋田の奈良家のような大豪農ではありませんでした。でも実は青森県にも、それなりに大きな

リンゴ農家、奈良家も存在したようなんです。秋田の奈良家と同様に、青森奈良家の古民家は現在、宮城県の「国営みちのく

杜の湖畔公園」内に、明治期の「津軽の家」として展示されています。青森県弘前市種市のリンゴ農家、奈良哲夫氏より寄贈

され、公園に移築されたそうです。リンゴ農家として奈良家も、実は何代も続いているのですね。私の遠縁かも知れません。

詳しくは、下段の参考リンクをご参照下さい。

 

また次に、商工業の分野でも、青森県での奈良姓の足跡を発見することが出来ました。弘前藩には、津軽塗という伝統工芸が

古くから存在しまして、現在の業界団体である青森県漆器連合会の歴史年表に、「明治40年、奈良丹次郎を組合長とする、

津軽塗産業組合が設立され、」とか、「昭和30年には、全国漆器展で津軽塗が優勝し、奈良敏雄を会長とする、青森県

漆器連合会が設立された。」との記述があります。下段の参考リンクをご参照下さい。

ですから青森県の奈良家は、津軽塗という青森の伝統工芸にも貢献していたのですね。とすると津軽塗は、藩政時代から

続く伝統工芸ですから、弘前藩士奈良氏がその中心家として、津軽塗事業にも携わっていたのかも知れませんね。

 

さて、現在の青森県出身者で最も著名な奈良さんとは、どなたでしょうかね? 私は、芸術家の奈良美智さんであろう

と思っています。あの独特な表情の子供の絵を見れば、奈良さんの絵だと、皆すぐに判りますよね。この奈良美智さん、

青森県弘前市の出身であることは、広く知られています。でも、我々が調べて来た奈良氏と、関係はあるのですかね?

私は充分に可能性が高いと考えております。何故なら奈良美智さんの家系は、代々弘前市近郊に住んでいた可能性が高い

からです。美智さんが生まれる前まで、美智さんのお父さんは神社の神主さんであったと、自身のブログで書いている

からなんです。(2014年5月5日のブログ「こどもの日に」より)

神社の神職は、代々引き継がれるのが一般的ですから、多分、同じ鹿角奈良氏系の子孫であろうと、判断されるのです。

もちろん、確定ではありませんが、可能性が高いと言うことだけでも、同じ奈良姓としては嬉しい限りなのであります。

こうして秋田に続いて、青森に逃れた奈良家の子孫達も、ちゃんと現代まで続いていることが明らかになったのでした。

(次回へ) 

 

 

「古文書で見る弘前城あれこれ」4/4 弘前市立図書館編

国営みちのく杜の湖畔公園 「津軽の家」

青森県漆器連合会の歴史年表

※奈良美智さんの過去ブログは、書籍として出版されたため、現在WEBでの閲覧は出来なくなりました。

 

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コメント: 1
  • #1

    髙橋美智子です (土曜日, 06 12月 2025 02:54)

    奈良家は男6人の子がいて6番目が北海道に渡り家族を作り11人の子がいました。私はその中の7番目の子孫です。